『権力の館を考える '16』#9「軽井沢の館」

この回で語られていたことへの理解がちょっと薄ぼんやりしたものの、もう一つのところでぐたぐたとまとめていたらなんとなくはわかったかな? 要するにあれ、軽井沢という土地にどれだけ政治家が集まって、ついにはそこで「終戦工作」が行われた、そして戦局が進む中でさらにここから逃げる用意をしていた、という冒頭の辺りで語られていたことを思い出すと重要なのは距離ってことだよね、多分。
そもそも日本には東日本と西日本を結ぶためのルート、分厚い山脈を越える地点は二箇所しかないということが語られていることがあるんですが、そのうちの鉄道ルートの一本である中央本線とも連なった軽井沢、観光地として早いうちから整備され、東京から近いとも言えず、ただしいざとなったらば移動することも不可能ではないというぎりぎりの地点だったということなのかもしれないなぁ…。
一応まあ、この土地がかつて静かな土地であって、一時の観光地としての賑わいがあったもののまた静かな土地へと戻ろうとしているという形で触れられていたものの、その土地の来歴そのものは特に重要とは思ってなさそうだったしなぁ。
 
というか権力者という括りではなかったので特に語られてはいなかったものの、細川邸の隣にあったという徳川の別荘には一体どなたがいたってことなんだろうw
それと山の上のほうには引退した政治家たち、かつての重鎮が。
平地の奥の別荘の持ち主の名前で呼ばれている木立の通りなどがざっくばらんと紹介されていて、この地にも外交使節が来たことがあるんだよー、と言われてたんですが、確かにほとんど一部の地元住人と政治家しかいなさそうな立地だよなぁこれ。
が、かつての終戦工作の痕跡も、この土地は特に大したこととして扱ってないのか。

「対馬からみた日朝関係」日本史リブレット041、鶴田啓

対馬からみた日朝関係 (日本史リブレット)

対馬からみた日朝関係 (日本史リブレット)

 

 

対馬というのは大雑把に九州と朝鮮半島との間にある島で、正直なところちょくちょく外交の歴史の中で名前を聞くことはあるものの(宗氏、だっけ? もう一家系くらいいる感じでしたが)、どうにもその具体的なイメージが湧かない、と思っていたのですが。
むしろ大宰府なきあとの大陸、半島との交易の頭脳的な本拠地、ということでいいのかな?
出来ればこの地の一族がどのようにして国内随一というノウハウを身に着けたのか、どうやって維持していたのかとう部分に関しても聞いてみたかったのですが、それは専門の研究者の成果を探すべきなのかなぁ、やっぱり。
九州の群雄割拠の中で、博多だけであっても維持し続ける武力に関しても馬鹿には出来ないよなぁ、九州そのものが知られるようになったのが最近って話もありますが。
 
本の中では教科書でも聞いたことのあるような外交文書の改ざんなども出てきていたんですが、正直なところ、「この時に突然」歴史の表舞台に出てきたような記憶、という人も少なくないんじゃないのかなぁ。
そしてそもそも私の世代の頃に学校で教えられるようになったそうなので、私よりも年齢が上の人だと聞いたことすらないってことにもなるのかな。
実際にはそれこそ古代(大宰府律令国家の形成とほとんど同時期のはずです、国分寺より若干前なんだよね)から連綿と続く交易が行われていたって認識するのが正しいんだよね、これはどう考えても。
この本と前後して読んでいた神社の本でも『延喜式』に対馬と、近隣の島である壱岐に格の高い神社が九州全土と張るくらいの数が存在しているって触れられていたしね。
しかし、地方史への無知って洒落にならない域なんじゃないのかしらひょっとして…。

「列島創世記-旧石器・縄文・弥生・古墳時代」全集日本の歴史1、松木武彦

前に古代史の番組を見たあとでテレビ関係のブログを見ていたら「邪馬台国関係でもないのに重大発見なんて、困ったもんだwww」と嘲笑っていたのを見てだいぶ暗い気持ちになったものですが(曲がりなりにも歴史に関わる人間がそれって…という絶句ですね)。
どうも最新、もしくはもうちょっと古いのかもしれないんですが、邪馬台国に関してはその所在地を確定することがそこまで重要でもないな、という方向になっているんですね。
で、このシリーズは小学館のものなのでわりと折衷的な内容になってるんじゃないのかなぁ、邪馬台国の場所は今の段階でこれ以上議論しても無駄なんだけども、今後、古代史の進展そのものによって地域を狭めていくことは出来るんじゃないかなー、という。
というか、最近あれやこれやと「邪馬台国と同時代であることはわかっている遺跡」というのがちまちま見つかっているので、当時の国の支配体制がどんなものだったのかというところからよくわからないというのが実情なんだろうね。
遺跡なんてのはそういう流れともまた関係なく、生活そのものを淡々と再現していくことを目的としているんですが、遺跡単体の本なんかを読んでいるとわりとこの道具の使い方そのものに拘ってしまい、そこで論争になるみたいな話もちょくちょく聞くんですが。
 
この本はそこも折衷の内容になっていて、一つずつの道具それ自体よりもその道具そのものの分布によって分析を行う、みたいな展開になっている感じ。
全体的に今まで読んできた本とは資料は同じで手法が違うんですよね。
ただ、個人的には後半の前方後円墳に関しては大括りの全体的な傾向の違いはすでに行われているので(そこまで数が多くないしね)、細かい一つずつの違いによる分析にシフトしてくれていても良かったなー、と。まあでも、十分面白いから次も読もう、楽しみだなー。

『日本の美術22 茶道具』藤岡了一・編

あくまで取り扱われていたのは茶道具という物に関しての歴史なんですが、最近時々「侘茶の創設者」と言われていて、若干ぴりぴりしていた千利休さんの扱いに関して、まあ、それ自体を認めるつもりはないものの、ある程度理解出来ないでもないかなー、という気持ちになって来ないでもないんだよね。
侘茶そのものは東山文化の中で生まれているので(応仁の乱の前後くらいと考えるとわかりやすいかなと、で、千利休は戦国時代)、その単語を使われるとうーん、と言うしかないんですがどうにも。
まあただ、やっぱり今に至るまで続く茶道っていう精神を作ったのは利休さんなのかなぁ、茶釜を鉄の観点から分析した方などによると、道具のシンプル化という傾向そのものは利休さん以前からあったみたいなんだけどもね。
なんと言っても庶民向けにしたってのはさすがに彼だしなぁ。
というか、なんかちょっと逆説的な言い方になってしまうと思うんですが、庶民化と豪勢な茶室だの茶道具だのとか、凝った傾向だとか、その反動のシンプル化などって裏表の関係にあるというか、好事家だけが参加してる時にはあんまり起こらない傾向だよね。
いや、庶民が扱えるほどに安価な道具があるってのはわかるんですよ。
が、それだからこそ豪勢なものや、独特の価値のある茶道具も同時に生まれてるような気もするんだよね、茶道具以前に価値がある大陸由来の茶碗なんてのはまた別としてね(その辺はもう東山御物などの域だし、要は足利将軍由来)。
 
しかしまあ、利休さんがそこらの道具でいいよ、普通の御飯茶碗でいいよ、というのが価値を釣り上げたというのはなんかこう、皮肉ってほどでもないかな。難しいね。

「古寺に秘められた日本史の謎」歴史新書、新谷尚紀・監修

神社に秘められた日本史の謎 (歴史新書)

神社に秘められた日本史の謎 (歴史新書)

 

 

このタイトルと表紙の「歴史を影で動かしていた!? 知られざる寺院の正体」という煽りの文章を見て気持ち良く手に取れる人はあまりいないと思うんですが、表紙を一枚めくった巻頭カラーは一番最初の薬師寺の跡地に関しての写真でした。
薬師寺は移転してったんですが、その最初の痕跡です、多分この時点で表紙と印象の格差が半端ないと思うんだよ! あ、あと薬師寺に関してだけが今の時点で全くどのような寺院なのかがわからないので出来ればその関係も読みたいです。
巨大寺院に関してそれぞれの歴史の本とかも出そうよ、きっと面白いよ!
(日々『歴史新書』に対しての好感度が上がっています、全部を信じてるわけではないんだけども、間違えていても新しいアプローチの仕方をして失敗する分にはむしろ歴史学全体にとっては役に立ってると思うんだよね!!)
 
えーと、あれ、古代寺院に関しては若干、というか、遺跡や物の歴史に関しての分野が若干弱いかな、と思う部分はあったんですがまあ、これだけわかりやすかったらいいんじゃないのかなぁ、という気もしないでもないですし。
すごく単純に言うと瓦の歴史と仏像の歴史の人を呼んで来られると絶対今の情報網と掛け合わせることでぐっと良くなると思う、文献資料だけだとどうしてもつながらない部分あるんですけども、並べてくと状況狭まるしね。
というか内容そのものに関してほとんど触れてなくてすみません、僧侶に認可を出す戒壇院のざっとした説明とか、神仏習合に関しての種類とか、巨大な寺に関しての動向とか、とにかく知ってる私でも面白いし、まあただ、同時代の知識がないと厳しい部分はあるかな?
寺院の歴史そのものは知らなくても多分十分読めるんじゃないかなぁ。

「一向一揆と真宗信仰」神田千里

とりあえずこの本を借りて来たメインの目的はがっつがつと戦国武将と対立することのある本願寺がよくわからないという部分だったんですが、正直、一向一揆浄土真宗といまいち印象が一致しないし、本願寺もそんな感じという齟齬のような部分も気になってはいたんですよね、多分、なんかの間の事情や変化を知らないからそう感じるのかもなー、と。
したらこの本では「浄土真宗において直系子孫の蓮如以前は弟子の系譜のほうが優勢だった」というようなことが語られていまして、要するにこの直系子孫が本願寺の管理人に納まるところから始まるようです。
今までの発想では蓮如こそが浄土真宗の本流であって、それ以前は邪道であるという認識がされて来ていたが、なんてことも言われていたんですが要するに以前と以後で違う傾向があるってところまでは意見が揃っていると見ても良さそうでもあるかなー。
あ、直系子孫というのは本当に親鸞さんの子孫ですね、浄土真宗は結婚可能なのね。
 
それと、まだ確定の説ではなさそうなものの、どうも一向宗というのは最初から浄土真宗だったというわけでもなく、浄土宗(要するに親鸞さんではなくて法然さん、親鸞はその孫弟子です)関係の民間習俗であって、蓮如の時に接近を図ったのではないのかな、ということになるんじゃないのかなぁ。
これ、その後どこまで研究で裏付けられたかはわからないんですが、もしそうだとすると本願寺一向一揆が同じような違うような、微妙な関係であることも、本願寺がやたらと強い武力を持っていたこともわりとわかりやすくなるような。
あと個人的には本願寺がやたらと貿易に関わっていたとか、この本の中で出てきた朝倉氏との関係なども気になるのですが、もっと研究進んでいないかなぁ。

「NHK さかのぼり日本史5」幕末 危機が生んだ挙国一致、三谷博

シリーズがやっと半分消化出来た時点でようやっと近世の終わりなのですが、大雑把にどうして幕府が崩壊するに至ったのか、という巻だよねこれ?
一応時代を遡っているコンセプト上、明治政府寄りなんですが全体的に。
どう考えても自壊していて、それよりはマシという感じで新政府が誕生しているようにしか見えないんですが、いや、私にとっての明治維新とそれからしばらくの明治政府の評価については「倒れなかったので及第点」というものに尽きるんですけどね!
(前に見たことがあるんですが、正直これ以上の回答ないだろうと何度でも言う。)
ただ、初期の頃にやたらと各地で起こってた反乱を略して明治政府寄りにするのちょっと釈然としないかな、欠点まで触れた上でなお評価しますって言って欲しいですね。
いやこの本ではそれよりも前なのですが、どうにも幕府側が判断を間違え、全体的に甘く見積もった挙げ句に崩壊した、としかやっぱり見えないです。
なにか他にもあるとは思うんだけどねー、既存の資料から大きく外れてもないよなぁ。
 
ちょっと面白かったのが徳川家茂(14代将軍)と徳川慶喜(15代)は14代が選ばれた時点ですでに能力の高い慶喜が俎上に上がっており、ここの二派の争いがわりとあとを引いているのですが。
肝心の慶喜が将軍になった時点でその争いがあんまり意味ないことになっているのでちょっとわかりにくくなっているのかな、という部分でしょうか。
大雑把にこの時代は各藩が財政的に破たんしつつあり、その中で告げられた強力な軍備を持つ諸外国の開国要求と、近隣国への蹂躙、幕府は崩壊したものの、それでも日本は倒れなかったんなら、それが正しい選択だったと言えなくもないのかなぁ?