『21世紀仏教への旅』2、心をつなぐ教えを求めて・韓国

なんで韓国では宗教が心がある形で生き残ってるんですかねぇ、という問いを掛けられて、「ぶっちゃけ弾圧されてたからじゃね?」みたいな答えを返した坊さんはすげぇ素敵だと思います。弾圧されたくらいで駄目になる宗教なんざそれ以前からもうすでに駄目だったんですよとか、むしろその弾圧されてた時代に「本当に心の支えとなるべき力」を手に入れることが出来たんじゃないのかとか。
もちろんこんな言葉遣いはしてません、いやマジすんません。


まあ大陸から半端に突き出した(半島と言いましょうや)位置にあるせいか、大国もちょっかいを掛けてくるわ民族も流れ込んでくるわでいろんな意味で揉め事の種が尽きないわけなのですが、その民族をまとめあげよーとした時に華厳宗っちゅー“皆違っても仲良くしよーね”ということを論理的にまとめた仏教の宗派を利用したそうですヨ。
今度はまとめすぎました、ごめんなさい。
それはなんというか、政治が宗教を利用したのだと言うことは出来るんでしょうか、国や民衆そのものの悲願っつーか、「やんなきゃ国やべェェ」というかな(だから)。


韓国は数年前、がちごちの学歴社会に突入し。
アメリカさんの意向で兵役が導入されていたりもする。
そして生来のなにもかもがスピードが早い(国がいい感じに小さくてね)国民性でもって、すでに学歴社会への疑問っちゅーか社会不安が出てきていて、宗教に拠り所を求める人が少なくないそーなんですが、その時にすでに歴史を経てきた宗教自体に。
それを支えるだけの受け皿っつーか器がすでにあったということなんでしょうか。