「山手線誕生−半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史」中村建治

「山手線は実際には環状ではない」という多分鉄道マニアの間で言われているのだろう言葉を「ああなんか、実際には潰れてるよね」という解釈をしている人も多分多いのではないかと思われるのですが、どうもあのぐるぐるっと廻っている路線がそもそも全てが山手線というわけではないらしい、と言われるとなに言ってんだマニア! 困った輩だな!!
とか思ったりするのではないかとも思うのだけれども、建設史を聞いて見ると別にそんなこともなかったです、あ、これは確かに山手線ではないよね。
そもそも山手線は丸くするつもりなどは全くなく、現在の東海道線とか上野駅から東北の方向に出てる路線(曖昧だが曖昧にしないと説明が長い)とをつなげる目的のためだけに作られており、実際に必要だったのが現在の新橋−上野間ルートだけだった、ともなるとあれだ、かなり短い区間ですよね。
ところがどうもその代わりに品川−赤羽間の路線を作ったらしい、大変長いですね。
ちなみに、円状ではないものの微妙に膨らんでいるのもどうも通そうとした地点「繁栄した場所」から追いやられて寂しい土地に駅や路線が移った結果のようです、なんというのがご愁傷様、というかご苦労さまです。


それからも、激しい鉄道反対運動に遭ったり、地形がそもそもダウンストリームだったり、地域発展のために数年前に誘致したばかりの刑務所(誘致?!)はさすがに削れんだろうとか、東京駅作らなとか、新宿は繁華街追い出された寂しいとか。
関東大震災とか戦争とかいろいろいろいろなことがあったようですが。
まあ半世紀も過ぎる頃にはなんとかなったよ、ということでしょうか、途中から環状もいいよねぇってシフトしてたしね、頑張った頑張った。