「江戸東京・街の履歴書3 新宿西口・東口・四谷あたり」班目文雄

新宿の辺りがもともと「内藤新宿」と呼ばれていて、一種の花街を形成していたということはなーんとなく聞いたことがあるのではないかと思うのですが。つか、花園神社の中のお稲荷様の裏にはでーんと男性器を象った石が置いてあるし、投げ込み寺(死んだ遊女の供養費をケチって投げ込む)なんかもあるんだよねぇあそこ…。
(新宿は微妙に都会派である偽装をし切れてないところがあるけどそこがいい。)
が、この内藤新宿がいつ頃どうして作られたのか、というのはあんまり知ってる人もいないんじゃないかな、という気もするんですが。
あれなんですね、他の街道筋の宿場町と違って人工的に後から作ったのね。
なんでも宿場町って治外法権だったらしく、それで花街とか自然発生的に出来ていたんですがむしろ江戸の人間向けの花街作って一儲け企んだ御仁がいたそうです。なんとまあ。


基本的には新宿ってとりあえず駅! だと思うんですがまず開業したのが山手線続いて中央線、どっちも当時の名前じゃなくて実はその時点で私鉄。その後京王線って書いてあったけど東京市電(来た当時は私鉄)がやってきて、京王と西武軌道(路面電車、私鉄)が来て続いて小田急が開業して地下鉄以外の今の面子が揃ったわけですね、減ってもいるけど。
要するに私鉄ばっかし来てたから今みたいに秩序ないんだな、と思ったけど謝りません、私の第二の故郷は新宿でその垢抜けないところを愛してます。もともと四谷のが全然発達してたとか余裕で受け入れられますとも。
浄水場の跡地を売り払って証券会社に入って貰おうとしたけど失敗、切り売り、南口の先の高島屋はまだなくて著者さんもどーなるのかな、と興味津々。どんどん大きくどんどんややこしくなってくけど、やっぱなんだかそこが好きなんだよなぁ。