『東京人』2007年03月号「江戸吉原」

吉原という江戸に存在した花街のこと自体は知らない人もいないと思うのですが、元は日本橋のところにありまして(なんでも申請から15年ほど掛かったそうですよ)、それがふと気付いたら居住地域そのものが拡張してしまって街のど真ん中に。
さすがに都合が悪い、というので当時は浅草日本堤と呼ばれていた土地か本所かどちらかの移転をするように、と言われてどうも市街地の外れと当時は市街地から離れた郊外とはいえ、水運があって近くに浅草がある日本堤のほうを選択。普通は吉原というとこの新吉原のことだそうで、鉄道最寄りは三ノ輪駅でいいんだよね? 触れられてなかったですが。
あ、近いとは聞いてたんですが、もともとそこが理由になっての移転だったのか。
なんでも観音詣でを言い訳にした吉原通いもあったし、早くから吉原に出掛けての終わったあとの観音行きもあったらしいんですが、後者がなんか微妙な、男ってww
んでその新吉原の土地を“お歯黒どぶ”で囲って遊女を逃げられないようにしての営業。


とはいえどうも、関東大震災の時に普段からの扱いが悪くて逃げられなかったというのは完全な風説のようですね。なんでそう言い切れるのかというと、一旦火事になると吉原を全て焼き切ってしまって「仮宅」に移っていたらしく、15回焼いてるみたいなのでw
江戸時代を200年としても前の経験者ちゃんと残ってるわ。うん。
火消しが駆けつけても見てるだけだった、というのも多分延焼の防止でしょうね、どうも仮宅での営業許可は1軒でも焼け残ってると出なかったようなのでそういう措置に。
3回目じゃないと遊女の床に入れなかったよ、とか、投げ込み寺があったよ、という話や教養や粋もあり、流行の発信源でもあったよ、というのも最近たまには聞く話。
是にしろ否にしろ、なるべく覚えているのはいいことなんじゃないのかな。