『東京人』2007年10月号「後藤新平 東京をデザインした男」

後藤新平というと大正12年の関東大震災ののちに“大風呂敷”な復興計画を立てて失脚して、のちに彼の計画の断片だけが実行されていたんだよ、というところまでがわりと一気に語られているのを何度も聞いているのですが。

計画の詳細を語らないからやたらと巨額に聞こえるけど、細かく見てくとそこまで無茶な計画でもなかったんだから、きちんと説明すべきだったんだよね、というのは個人的には平等な評価なんじゃないのかなぁと。

だから計画の断片は利用することが出来たよ、というのは納得出来る流れだしね。

それとこの方はどうも、満鉄初代総裁や、台湾民政長官などの地位にあったこともあって、今ならそれほどでもないんでしょうが、いまいち評価されにくかったのにはそれがあるんじゃないかなぁ、ということも言われていましたね。

(台湾とか満州そのものはともかく、日本全体がそうだったとしか言い様がないから、当人の仕事っぷりが恥じることがなければ別にいいんじゃないのかな、とは、もちろん国外からの評価が低いってことならそれもまた仕方ないけどね。)

 

あと、当時の副都知事の猪瀬直樹さんの指摘がちょっと面白かったんですが、そもそも後藤新平が見据えていたのは関東大震災で壊滅した関東というよりも、都市がどんどん郊外に拡張していくという産業化の首都圏そのものだったんじゃないかと言っていて、うん、要するにそういうことですよね、今膨張しているのは主に東京の西側ですが、その流れはこの震災よりも前に始まっていて、震災で加速したというのも時々聞くことが。

そもそもなんで内務大臣だったのに、後に東京市市長にまで納まったのかとかという顛末にしても、確かに利害だけの人ではなかったんだろうなと感じることはありますね。