「江戸東京・街の履歴書4-銀座・有楽町・築地あたり」班目文雄

明治くらいの本を読んでいると銀座を煉瓦街にしたために病気になるとかなんとか言われて、というような言い回しをよく見るのですが、そもそもなんでこの煉瓦街というものが出来たのかというと官庁街に比較的近い(タイトルにも有楽町とかあるしね)、なんだかんだと庶民の町だったせいなのか火事が多く、3年に1度のペースで大火なんぞ出されると堪ったもんじゃない! というのが本音だったらしいのですが。

ちなみに銀座の柳もどうもこの辺りだかでイチョウに植え替えられたそうです。

水分含んでて防火対策になるそうです、寂しいのもわかるけどまあまあしょうがない。

だって本当に3年に1回起こってたんだもん概算とかじゃなかった!

 

まあ、そんなこんなで江戸の伝統から当然外れてしまい、横浜から築地へと(今だとわかりにくいけど水上ルートです)外来の文化が流れ込み。

どっちかというと実務一辺倒なショールームだの弁護士などが多かったらしいのですが(新聞社は文化の担い手だろう、というのももっともだけども、正直ショールームや弁護士と並べるとやっぱり実務系な気が)、そこにいっそ舶来、目指せパリに、という具合に展開していったのが田舎者たちだったんだよ、と言われると全体の流れに妙に納得。

デパートの印象も強いですが、実は他の土地よりも遅くて、と言われるとそういえば昭和の始めくらいに地下鉄が始めて出来た辺りでこの辺に建ったんでしたっけ…。

そもそも“銀座”というのは江戸の両替商の区分なんですが、実際にこの土地が文字通りの銀座だった時期はごく短いのになぜか人が銀座と呼び続け。

本来の銀座である北側より、あとから銀座となった南側のほうが明らかに発展したよ、とか本当に土地ってままならないなぁとしみじみw