「甲斐と甲州道中」街道の日本史23、飯田文弥

甲斐ってのは現在の山梨で、さて、なんでかつての“国”とほぼ同じ領土を保っているこの地が山梨という一部地域の地名を県名としなくてはならなかったのか、ということが語られていたんですが、うーん、あくまで直接反抗していたというわけでもないからなのか、外から見て推測するしかないみたいですね。

というか明治維新の新政府から微妙に扱いが悪かったよ、というのって、かつて江戸幕府から直轄地にされて、現地で流通していた独自の貨幣とか制度とか升とかを禁止されたのとそんなに印象として変わらないんですよね。

なんで直轄地にされたかというと、それこそタイトルの話ですよね、甲州街道はむしろ西の地との裏道として使われることが多く、要するに徳川家なんかが江戸入りするのにも使ってたりもするので、軍事上も正直そうするしかないわな。

甲州街道(すみません普段こう呼びなれてるので)の最大の難所であるという笹子という土地には聞き覚えがあったんですが、JR中央本線の笹子トンネルって本の中でも語られてましたね、トンネルのおかげですっかり寂れてしまったのだとか。

 

甲州街道は日本橋を基点に各地に延びていた5街道の一つで、終点が正直よくわからないんですが、江戸の次は多摩(昔は神奈川でした)、で次に通るのが甲斐(山梨ですね)、現在もまあ大動脈ではあるよね。微妙に昔から普段遣いらしかったんですが、八王子を一旦の集積地にして絹糸などの産品を運んだよ、というのも米作が弱かったことが原因なんでしょうね、一部の土地以外ではほとんど取れないけど現金収入には事欠かないとか。

直轄地だったので武士階級がほとんどおらず、米作弱く、で、近代に甲州財閥っていう横のつながりのない商人がいたらしいことにはどうつながるのかなー、ちょっと惜しい。