『八重の桜』#26 八重、決戦のとき

八重さんが戦場に出てくる、と聞いて正直心配がないでもなかったんですが(兄ちゃんは鬼神だ本当にあれは桁外れだったと思う)、命が「無為に」失われる作戦には加担しないこと、どちらかというと型破りの方法であっても選択することを躊躇わないこと。

そして、なによりもこれが完全な防衛戦であること、ということとの兼ね合いが良かったんじゃないかと思います。逆に彼女が出てきたことで安心したなぁ。

正直、白虎隊の悲劇は、可哀想とは思うけど、あれが美談と語られるの好きじゃない。

指揮官が、正確な判断をすることが出来る人間が不在になってしまった、完全に起こらなくても良い悲劇だった、という解説をされていたので、嫌いというほどではないんですけどね、西郷頼母の家族の死もですね。

私は極めて個人的に、あれは、常に不戦、退却の側の意見をがなり続けていた西郷頼母さんのために行われたものなのかもしれない、と思っています。覚悟がないわけじゃない、そういう問題じゃない。彼の言動は保身のためのものじゃないんだって表明。

もちろんただの空想で、そんな解説を聞いたことがあるわけでもないんですが、そして、多分周囲からはけしてそうは思われていなかったのではないかとも思えるんですが。彼女らの死がなかった時に、本当に西郷頼母の評価が今と同じものだったかの自信はない。

白虎隊の死も、二本松の悲劇も私は美談にして欲しくない、けれど忘れないためにそうなってしまったことを語り継ぐために、という視点とは違う扱いを受けているのを何度も見ているんですよね。そういう国だから、死をもっての訴えが有効だったんだろうとも思えます。

 

でも、そうなのだとしたら、当時から日本ってなんにも変わってないのかなぁ、とかちょっと思えてしまいます。命汚い人のが、私は好きです、正直綺麗な死なんて嫌いだ。