「地図物語 地図と写真でたどるあの日の日本橋-昭和26年から30年代の思い出と出会う」佐藤洋一/武揚堂編集部
あの日の日本橋―昭和25年から30年代の思い出と出会う (地図物語)
- 作者: 佐藤洋一,武揚堂編集部
- 出版社/メーカー: 武揚堂
- 発売日: 2007/09
- メディア: 大型本
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そもそも私、初期の東京市15区(明治11年からで結構長かったんでこれ、でもそれ以前にも他の体制もあったのね、実情が整ってはなかったようです)とそれを内包する東京府というものを把握してなかったんですが。
東京市街地(これがだいたい今の山手線)と主要街道の4つの宿(品川・新宿・板橋・千住)と、周辺農地(葛西から東の辺りですね、昔小松菜のことを葛西菜って呼ぶんだよね、私はメトロ東西線の江戸川から先って覚えましたw)、となると。
意外と過去の記憶って完全に忘れ去られてないんだね? みたいな、一部ズレてるけど。
なんでこの辺りの話がされたかというと日本橋が主要5街道の基点だからだよねこれ。
で、金座銀座銭座という貨幣鋳造所がかつて存在して、上方では金座、江戸では銀座が主流となって、という話も、要するに日本橋が経済の中心であったから語られ。
銀行が百貨店が商業の萌芽がこの地から、というのも、銀座や兜町がお膝元として存在してるから当たり前なんだよね、あとちょっと変わったところだと公認花街の吉原はもともとこの地にあって移転してったんだよん、とか。
江戸が造られた一番初期は日本橋もちょこっと中心街からズレてたらしい。
で、明暦の大火で周辺が埋め立てられていき(日比谷ってありますがあそこが海岸線だったのはたまに聞きますね)、この地にあった魚市場も築地に移転し、みたいな。
関東大震災では始めて自動車を意識した広い明治通りが作られ、オリンピックの前には水路が埋められて高速道路が作られ、最近よく見る日本橋を上空で塞ぐ形になって、正直、どこまでページをめくってもめくっても日本の江戸から歴史の流れの辺りの話ばかりだったんですが、そもそもそういう土地だったんだなぁ、と。