「多摩と甲州道中」街道の日本史18、新井勝紘/松本三喜夫・編

今でもなんとなく“三多摩”という呼び方には馴染みがあるものの、実際の行政地域ではないんだよん、というのは結構若い人でも知ってるのではないかと思うのですが、大雑把に今の豊島区なんかも多摩だったので実は三多摩になったのもそんなに古い話でもないんだよね、というのが概ねのこの本の書き出し。

わりと最近知ったのですが、甲州街道が開かれたのが江戸の頃で(新宿が宿場として新しいってのは聞いてたんですが)、となると府中とか国分寺なんかが律令制の頃のものなのでよっぽど古いというか、武蔵野が国名だとすると「多摩」ってなんでしょうね?

そもそも武蔵国のはずなのになんで武蔵“野”と一般的に呼ばれるようになってるの、という辺りからすると結構な雑木林だったのかな、と推測されていたんですがw

この辺は他に東山道武蔵路という、えーと、東海道中山道を南北につなぐ道もあったようで、多分これが時々話に聞く国分寺と府中をつなぐ道の痕跡ってやつか。

他に甲州街道の裏街道である青梅街道や五日市街道、鎌倉につながる道があるってのは中世以降に作られたのかな、結構歴史が多重構造になってるみたい、てか江戸より古いな。

 

前に読んだ『甲斐と甲州道中』でも書かれていたんですが、甲州街道が徳川の私道という性質であったためにその道中は直轄地だったそうなんですが変わりに一定の農産物を奉納し、江戸の人口を支えれている代わりに自由な土地でもあったのかな? 明治期に「品川県」への直訴の記録が残っていたんですが、訴える側の農民のほうが下級役人より教養あったんじゃないのこれ、特に有名人は輩出してないんですが、全体的にレベル高そうだなー。

が、明治以降は市内から一度切り離され、なんとか東京府に編入されたものの防空機能がこの地に来たり、多摩ニュータウンが出来たり、どうもとばっちりの歴史だよなぁ。