「古代道路の謎--奈良時代の巨大国家プロジェクト」近江俊秀

最近ぽちぽち街道関係の本を読んでいるせいで、なんだろう、例えば江戸5街道の一つ、甲州街道などに関しては整備されたのが江戸に入ってから、というのも明記してあるし、それが幕府の命によって、ということもはっきりしているようなのですが、東海道とか中仙道とか、ぽちぽち近代に入っても名前を見るこの道のことが妙に曖昧に書かれていて、若干気になっているといえば気になっていたんですが。

一応、「誰が」作ったのかはほぼ考古学資料で推定されているものの、公文書に書かれてなくて微妙なことになってるとは知りませんでしたw だいたい、記憶力がいい人なら特別に歴史好きだったわけでなくても天智天皇天武天皇は覚えてるほうだよなぁ、こんな道作ってたって授業で聞いた覚えがないんですが、律令制(習った!)の一貫ってことなのかしら、駅が地方によって特色が違ったりもするようなので、それぞれで作ってたんだろうね、と言われてはいるものの、なんともわからん話だなぁ。

いや、これだけの大事業をやったらかなりやり取りしないと無理だよねぇ?

中央政府のみで情報を持ってるものが消えたということならともかく、地方にあれやこれやと廻ってるものがそう簡単になくなってしまうとは思いにくいんですけどね。

なんでも道が湿原や高地に突っ込んでも直線であることを優先してるために、維持管理がかなり大変だったようです、どのようにして直線道路を作ったのか、ということも、わりとシンプルな棒を2本使っていたんじゃないのかな、と推測していたもののあくまで推測。

 

府中(地名のあれです、もともとは武蔵府中ですね)や国分寺国分尼寺なども述べられてていて、ざっくりと制度が語られていたものの、もとがもとなのでわりと半端なことに。

なんで廃絶したのかも不明だけど、まあ大変だったよね、で納得するしかないのかw