「内藤新宿」都史紀要29、東京都

日本橋から甲斐、甲州に向かう道(まあ今の山梨です)の一番江戸市内寄りの宿場街だったのがこの内藤新宿で、もともとはもう少し遠い上下の高井戸宿が一の宿だったのが、不便ということで新設されまして、新しい宿であるから「新宿」、当時はよくある地名だったので区別をするために前の土地の持ち主だった内藤氏の名前を冠しました。
まあ、そこそこ中継点としては使われていたようなんですが、もともとその甲州街道というのが大名行列のほとんどない、八王子から新宿までをつなぐ生活道路だった上、この内藤新宿をプロデュースしたのが浅草(当時は随一の繁華街です、新吉原にも近いし)から来たグループだったため、どうも宿場に当時許されていた半公認の花街を展開する目的だったのではないかと推測されていまして、実際、一旦廃止されちゃったんですよね、ここw
(これもその前に武士が絡む死傷事件があったからとか噂もありますが、まあ実際飯炊き女の数などは品川宿のほうが多かったらしいし、風紀の乱れなどの意味合いだけではないだろうと、これも推測です。)
が、あんまり気にされてませんが、品川宿は別格として他の板橋宿や千住宿などよりは栄えてたっぽいんだよなぁ。

 

なんて流れはだいたい知っていたんですが、もともと新宿の近く甲州街道沿いに住んでる人間的に面白かったのが多摩地域の関係と諍いかなぁ。規模的に内藤新宿に他の村の統括役になるようにという要請があった時に、内藤新宿は江戸市中と変わりがない、農地とは違う、という発言があったりね。でも甲州街道の宿場の束ね役ではあったんですね。
ちょっと明治に入る直前の打ち壊しや貧民の数の誤魔化し登録などはわかりにくかったんですが、だいたい扱われてるのはその時代まで、しかしやっぱり元気だよなぁ内藤新宿