「応仁記」日本合戦騒動叢書2、志村有弘

もともと足利幕府において(でも三管領の家とは別なのね? 三管領は細川、畠山、斯波)有力だった、山名と細川が分裂したことが応仁の乱の原因だと「誇張されている」ということを少し前に本で読んだのですが、まあ実際、そこが割れなければ少なくとも実際に戦になりはしなかったような気もするかなぁ。
上で触れた畠山の家の家督争い(養子貰ったあとに実子が出来たケース)がまずあって、地位を持っている養子の側と実子の側とでわりと短くもない争いがあったものの、細川が養子、山名の家が実子の側に付いたことでイーブンの戦力になり。
全面戦争になる、というところで細川側が支援を出さなかったため、養子の側である畠山政長が敵兵の死体を掻き集め、屋敷を焼き払うことで撤退、ということで一旦死んだと思われていた、という経緯でいいのかな。

ここで養子の側の畠山政長が地位から転落したのでそこで済んでいれば話は簡単だった気もするんだけども、どうもこの人はだいぶ当時知られた名将らしくて、とにかく民衆が彼の味方するんだね、細川も一旦兵を出さなかったもののあんまりぎゃーぎゃー騒がれたんですぐに呼び戻してるし、その後は足利将軍の地位争いにまで関わってるww
(が、現代人は彼のことを重要だと思えないみたいで、ずーっと事態に出てきたり消えたりするのにきちんと捕捉してくれないので全体的になにがなんだかわからん!)
もともと細川の側の記録だと推測されているように、細川寄りの記述がされていて日野富子の責任が誇張されている、と聞いていたものの、一応通しで触れられているので見てしまうとなんで日野富子選んだんだよ後半ちょっとしか関係なくね? というレベル。
視点偏っていても通しで記録残すのってやっぱり重要だなー、誰かまとめ直してくれ。