「三好長慶-諸人之を仰ぐこと北斗泰山」天野忠幸

どうもかつては天下人の定義が三好長慶織田信長豊臣秀吉徳川家康の4人ということになっていたそうなんですが、松永秀久(三好長慶の個人家臣)が三好の主殺しをしたということで評価が零落し、もののついでで三好長慶の評価が下がり。
現代に至るまでに存在すら抹消され掛けてしまったようです。
いいんだ、評価低くてもいいんだ別に、でも、三好長慶が足利将軍13代・義輝を追放してから復帰して来て、三好長慶が死去、次代を担った「三好三人衆」と松永秀久が義輝と戦って殺した、みたいな出来事を一瞬で説明されると意味が、わからない!!
時空を歪めないで下さい、あと三好三人衆というのの説明して下さい。
要するに三好長慶のあとを継ぐ存在が固まる前に松永秀久と争いになって、そのまま負けちゃったんだと、で、徳川治世下の世相では主殺しってことで評価下げたんだと、面倒臭いなぁ…まあ、当時には当時の事情があるのはわかるんだけどね。
時空を歪めるほどに事態が混乱してったことだけは本気で許さなくていいよね。

で、そもそも大和国(奈良)に松永秀久が城を持っていたのは聞いていたんですが、大和国を統轄する地位だったからかぁ。
けど、東大寺の大仏殿は三好三人衆との抗争の中で燃えたそうですけども。
東大寺側の記録だけど、そもそも松永秀久の多聞城が大仏殿の向かいの山にあった時点で駄目だと思う、そこに作ったら東大寺が逆らえなくなると判断したのだろうけど、大仏燃やしたっていう批判だけは受けとこうぜ、直接やってないのはわかってる!!
あと足利義昭を擁立して織田信長と協力体制で京都に入ったんですね、へー、最初は対等だったのか、知らないことずいぶんありますね、てか今まで読んだ本と違う…。