『日本の美術78 運慶と快慶』田辺三郎助・編

とりあえずこの二人は源平の頃の平重衝の南都焼き討ちに際して燃やされてしまったという東大寺興福寺の復興に当たったという人物なのですが、よく考えたら昔親子って説明されていたし、その後親類ってのも聞いたことがあるような? でもそもそもこの名前にしてからが「慶派」と呼ばれるような派があるからってことでいいのかな。
あと初期の復興に当たってた仏師が京都系で院派とか円派とか。
正直なところ、仏師に関しての知識があるわけではないのでさっぱりわかりませんが、これも仏師としての通名みたいに捉えたほうがいいのかもなぁ。
で、勧進(寄進を集める人)に当たったのが重源か…なぜかたまたま手元に本があるので今ぽちぽちと読んでいるところです。いや単に、日本の禅宗の最初期の人である栄西の本を借りたら勝手に付いてきたというか、重源が初代、栄西が2代なんですね、勧進。
あと個人的には修復不可能とまで言われた本堂の修繕に当たった人などがわかるようなら知りたいですね、別に非難したいわけではないんですが、運慶と快慶は主に仏像作ってましたとも! あと、資料で時期がズレるから困ったよねー、とかさらっと言われてましたよいずこも似たようなもんですね。
お寺さんの資料ってたまに見るけど、寺の外の人のこと扱う分にはしっかりした内容だと思っていたんだけどなぁ、うんまあ、なんか理解出来る差異です。

で、ただ、東大寺南大門の金剛力士像などは残ってますが、基本的にこの時代に一生懸命作られた仏像ものちに室町の末期に燃えたそうです、東大寺いぃぃ。
京都仏師の造詣知らないのでなんとも言えないんですが、この迫力に満ちた仏像は鎌倉時代の主流になったんでしょうね。実際鎌倉に活躍の場を移してるみたいだし。