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「律令国家の対蝦夷政策・相馬の製鉄遺跡群」遺跡を学ぶ021、飯村均

律令国家の対蝦夷政策―相馬の製鉄遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

律令国家の対蝦夷政策―相馬の製鉄遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 

 

前に同じシリーズの多賀柵(多賀城)という蝦夷地対策の前線基地の本を読んでいるんですが(no.66)、要するにあちらもまだ発掘され直しているような段階だったので、まだ研究途上なんでしょうね。
少し驚いたのがかなご、かなくそとも呼ばれる鉄くずが落ちるたたら式の製鉄施設の跡地のことを近隣の人が「江戸時代のものではないか」と漠然と考えていたら実は古代律令制の頃のものだった、という部分かなぁ(あれ、中世だっけ古代だっけ、場合による?)。
江戸の頃だと記録に残ってるんじゃ…と考えてしまうのちょっとまずいかな。多摩だとその辺のことは特に空白ではないんですが、まあ江戸の近くの市街地として位置付けられていたとか、それこそ明治に入っての東北の地の敗北がその遠因にある、ということもあるのかもしれないなぁ、ちょっとそこは地縁のない人間にはなんとも言い様がない。
ただ、多賀城跡に関してもですが、ちょっと遺跡の重要度が低いものだと考えられがちってのはあるように思えるなぁ。多分これ、東北の事情というより、東国(今でいう東日本)全体の事情なのかもしれませんね、わりと関東の遺跡も近年に見付かってるしなぁ。
すごく大雑把に言えば、あまり文献資料として残っていなかった、という部分。

蝦夷政策、という文字が表紙にもあったので鉄による武器を作っていたのかな? と漠然と考えていたんですが、基本的に出てくるのは日曜用品のように見えるなぁ。あ、いや、7世紀後半から9世紀だと当時の武器ってどんなものなんだろう。
梵鐘や鍋、羽釜に武具? ああ、やっぱり武器は作られなかったのか、と検討されいるようですが、どうもやっていたとしたら分業ということになるようです。製鉄技術まではこの地では間に合わなかったということなのか、多賀城と同じく東海道系の交流もぽちぽち。