「箱根の山に挑んだ鉄路-『天下の険』を越えた技」交通新聞社新書032、青田孝

箱根の山に挑んだ鉄路 (交通新聞社新書)

箱根の山に挑んだ鉄路 (交通新聞社新書)

 

 

すごく大まかに関東から関西の地に行く場合に山脈があって、というニュアンスで読んでいたんですが、正直頭の中の地図がその辺で「うにゃうにゃ」ってなってることは認めます、多分なんだけど、そうなってる人少なくない気がするんですよね…。
その中でルートとなりうる地点は二つしかなく、その片方が碓氷峠、あれだね、日本の鉄道の最大勾配地だったところだな(最近はトンネルと迂回と北陸新幹線の馬力で元の路線は確か廃止されていたような)(観光資源として復活計画があるらしいですけどねw)。

で、もう一点が箱根の辺り、ということらしいんですが、正直なところ理解には地図が欲しかったですがさすがに日本そのもののレベルの地理なので自分で補うべきですね、すみません、江戸の頃にはもう箱根の七湯のうち、六湯までは知られていた、と言われていたんですが、庶民人気が出たのはそのあとだって認識でいいのかな? 鎌倉の頃には開けてたって認識なんですが、さすがに湯治ならともかく庶民の手が届かなくても不思議はないしなぁ。
んで、明治の頃には鉄道が少なくとも小田原には来るだろう、と期待したものの現在の御殿場ルートになってしまい、というところから始まる現地独自の試みの話。
私、スイスが鉄道密度が世界一というところから存じ上げなかったんですが、国境線そのものが山で作られた土地で山岳鉄道が非常に多く、箱根登山鉄道がそこに習ったよ、と言われるとすんなり納得、碓氷峠と違ってアプト式は選択しなかったそうなんですが、その後の両者の歴史を見ると正解だったと言えるのかなぁ。
正直、ロマンスカーも非常に大きな要因だとは思うものの、そのためにこれだけの紙面を割くのは箱根登山鉄道の現在も語られない上でのバランスは悪かったとは思います。全部が戦後までで止まってるならまあそれはそれで、で良かったんだけどね。