『奈良時代MAP-平城京編』

平城京と表現する時はわりとだいたい「平安京以前」ということになることが多いのですがわりとこの本もそんな感じ、都の範囲が小さいというか、天皇一代で宮をいくつか作るよみたいな程度の話っぽいんだよね。
で、この本の中でも触れていた藤原京は中核部分はそれほどでもないものの、その周囲を見ると結構な広さになっていて平安京にも匹敵する、手狭になったので都を放棄したというのはどうも当たらないのではないか、という指摘があったんですが、中核部分が瓦屋根になった、というのがこの藤原京以降(単に大陸の都を模したからであって、特に深い意味はなかったようです)の出来事らしいので、要するに中核部分のみが瓦屋根であって、それ以外は板葺きや茅葺きの屋根だったのかなぁ、と考えると、なんだろう、この際全部瓦屋根で都作ったほうがいいんじゃないか! という発想で作り直したのではないか、ということを考えてしまって仕方がないんですがどなたか研究しててくれないでしょうか。
(瓦屋根は大雑把に現存、板葺き茅葺きの場合の利便性はまあ、いくつか存在している建築で認識するしかないように思うんですが、だいぶ差がある気がする。)
あ、瓦屋根に関してはちゃんと物が残ってるのできちんと言及されてます、この辺に言及してくれてる方に出会ってないだけですw

そもそも私、この持統天皇の時代の「藤原京」ってなんでそんな名前なんだろうと長いこと謎に思っていたんですが藤原氏の支配していたも同然という揶揄だったのね、なんでこんなに正式の名前っぽく流通しているのか。
そして平城京にはそもそも都以外に藤原氏の私有地というものがぼこっと存在しているので、なんだったんだ藤原氏?! 以外の感慨が今は消えています。なんだこれ。