『日本古代中世史 '11』#9「中世のはじまりと院政というシステム」

前回講義を見たことを忘れたまま急いでまとめていたんですが、よくよく考えたらその時点で結構インパクトの大きい国司の制度の説明があって、そこの部分の印象はかなり深く残っていたようです。
というか今の私、国司(もしくは国衙)の中から武士が出てきたってなんか半ば当たり前みたいに認識してたんですがなんかそれ以外にも補足あったかなぁ。
あ、いや、そういえば荘園制に関しての本も多少だけど読んでたっけ。
 
まあ、この回でメインで扱われていたのは院政だったんですが、院政時代にはもっと天皇たくさんいたような? と思っていたんですが白河、後白河、鳥羽、後鳥羽だけが上皇としての政治掌握の地位にあったんだよ、というのはわりとわかりやすい。
そしてここの白河天皇がまず各地での荘園の成立によって税収が事実上なくなっているのでまず荘園を強制的にその主との関係を解除する形で集め、それからあれやこれやと再分配し(今度は知行国)、という展開になっていたんですがあれ、荘園と同じ結果になるよね、と指摘されていたんですが、同じ結果になるよね?
それとあと、鎌倉と京都の関係は鎌倉が下であるという説明がされているものの、別に京都の天皇がなんでも命令出せるわけでもないしなー、みたいな。
なんだっけ、私も何度か見たことがありますが「権門体制」という朝廷、武士、それと確か寺社だっけ? がお互い補い合っているという解説。
京都と鎌倉が争っていたのではないか、いいや京都が全く力を失っていたのでは、という説よりはずっと進展したという気はするものの、なんか何回聞いてもしっくり来ない感じの説明ではあるよなぁ、鎌倉新仏教もあれ、権力側の意向とか聞くっけか。