『日本古代中世史 '11』#11「中世前期の神仏と文化」

そもそも一回見た時点ではよくわかっていなかったんですが、平安時代の顕密仏教(まあ鎌倉新仏教とか禅宗以前の古い仏教)がどうして庶民に対してのものではなかったのか、という説明はあれですね、そもそも寺の中に下部機関である院が作られ、一つの院が一つの貴族の家と結び付いてそこに自分の一族を送り込む。
そしてその中から宗派の頂点を出すんだよん、という流れで説明されてたのか。
あれですね、「庶民の醜い庭に雪が降るのは似つかわしくない」という枕草子の一節で語られてましたが、まあそんな意識の時代じゃあ仕方ないよねっていう。
それ以前にも一応行基東大寺の大仏を作るように聖武天皇から依頼された怪僧)の存在なんかを思い出さないでもないんですが、あの流れは一体どうなったんだろうなぁ。

 

で、その中から庶民の方向も向いた鎌倉新仏教が誕生したんだよー、みたいなことが言われていたんですが、微妙にそこで切るのは正しくもないんじゃないかな、と言われてたのはどうなんだろうね。
実際、寺院内での地位の差はあっても、天台宗真言宗などの南都六宗以降の辺りだと庶民との関わりがないわけでもないしなぁ。
それこそ僧兵だとか言われてはいるものの、全く門戸が開かれてないわけでもないというかねぇ。あと神社の御霊信仰や若宮信仰辺りの展開も今後触れて下さると嬉しいかもですあれが庶民向けじゃないとは到底見えないし。
ただ、そもそもこの本郷さんの場合「顕密体制」ってよくないんじゃないかなぁ、日本全体が当時から全部含まれてたみたいな表現になってるって言ってたので、近い概念までは語られてるんだよなぁ、まあよくわからんのですって締め括ってたのも好感度高めw