「日蓮と一遍-予言と遊行の鎌倉新仏教者」日本史リブレット人033、佐々木馨

個人的には日蓮さんならともかく一遍さんに関しては思想部分ではなく(この人、実際思想っていう形で展開してたのかね? よくわからん、残してたものがちょくちょくあるらしいのは聞いているものの)、実際の活動周辺に関してを知りたいな、というつもりで手に取ったんですが、ただ、読んで気付きましたが、この二人を並べて論じるんだと確かに「意外と思想部分に関しては似てるんじゃないかな」というのもわかる気がする。
というより大雑把に言ってしまうと、鎌倉末期の頃の混乱の状況に対しての批判として考えれば浄土信仰への攻撃者(日蓮)も、浄土信仰の異端(一遍)も、その当時の信仰との乖離として捉えることは確かに可能なんだよね。
で、こないだ読んでいた一遍は必ずしも浄土信仰の異端なのではないのではないか、民衆寄りの立場は法然にもあるいは通じる部分もあるのではないか(親鸞が体系部分への完成者であるものの、最初から浄土信仰には二つの側面があったのではないか、という意見ですね)、という立場ともわりと親和性があるんじゃないのかしら。
 
そしてさらに言うと鎌倉幕府元寇があったために崩壊したと説明されてはいるものの、実はそこも確かにダメージではあったものの、ことの本質ではないのではないかという最近の学説も遠くないんじゃなかろうか。
というか、日蓮って確かに反浄土信仰という立場で出て来たものの、あるいは鎌倉時代の初期に生まれていたら普通に法然の系統として活動していそうだよねぇ。
ただ、彼の生まれた時代にはすでに浄土信仰から社会救済の要素は薄まり、体制に対しても既存の宗教に対しても全てに対して批判を行った日蓮宗の出来上がり、かぁ。一方、一遍は全てを捨てて踊り念仏へと至った、と。うん、社会閉塞の申し子だ、両者とも。