「パリの歴史」イヴァン・コンボー

この地の記録で一番古いのはローマのユリウス・カエサルの『ガリア戦記』(とはいえ、彼自身が後のパリへの遠征をしたわけではないそうですね?)の中のパリッシー族の要塞、ルナティアの地で、その後、ローマ帝政の時代をガリア地域の周辺都市として過ごし。
フランク族の王、メロヴィング朝の始祖クローヴィスがこの地を首都として定め。
いつの間にかパリッシーの民族名のほうで呼ばれるようになっていた、というのがその大雑把な変遷で、この呼称が「田舎者・野蛮人」だという意味を持つというのは余所に書いてあったんですが、今に至るイメージからするとちょっと不思議ではあるんですが。
(パリッシーもルナティアも綺麗な響きにしか聞こえないからなぁw)


その後、カロリング朝のシャルルマーニュ(ドイツ読みで大帝カール)の時代に首都から外され、国が分離し、カペー朝の頃に首都としての地位を取り戻し、シャルル5世(王太子シャルル、イギリスとの百年戦争の前期の人で“税金の父”)に都の機能を拡張され、むしろ王権そのものの要のような地となり。
絶対王政の頃、行政はパリに、喧騒のパリから王は離れ、ベルサイユに逃げ出し。
そんな歴史を繰り返し、一番新しいのは第二次世界大戦の時代、戦時政府はヴィシーという地に逃れて≪ヴィシー政権≫を名乗り、しかし、フランスをドイツ軍から「開放」したシャルル・ド・ゴールはパリでその宣言をしたという。
日本人にとって「フランスの首都はパリ」というのは当たり前すぎてあまりなにも感じないのですが、フランス人にとってパリは、けして首都として当たり前ではないにも関わらず、まず国を荒らすものはパリを侵し、けれどパリから離れ。
新しい時代はまたパリから始まるという、酷く不思議な都市なんだろうなぁ。