「修道院−祈り・禁欲・労働の源流」今野国雄

修道院というのは宗教者が自身の信仰を高めることを目的とし、人里離れた場所で祈りの日々を送る、というのがその主要コンセプトである宗派のことを指していうのですが。自分たちだけででがっつりと自給自足に足るほど作ってるとそもそも祈ってる暇がなく。
そのため、ある程度は他の生活地から近い必要があり。
抱え込んでいる作男(準修道士の地位にあることも)などを使って耕作を始めると始めるでもともと清貧の生活を旨としているために少しずつ富が蓄積され、手仕事と言われる作業を行っているとその質の高さから引っ張りだこ。
そもそも、一般民衆だってぎらぎらに世俗に塗れた宗教者より、できれば修道士に祈って欲しいな、というのが自然な感情なもので受け入れを行ってると喜捨の山。そして様々な要因で富んでいくと分家となる修道院が増え、そんじょそこらの世俗地主にも追いつけないほどの大権力者の出来上がりとなり、当然そんな場所には腐敗が忍び寄り。


その惨状を嘆いて志しある者が新しい「会」を作り、清貧の生活を一からやり直し。
(以下、托鉢修道会が現れるまで同じことの繰り返しが何度も、逆の意味での例外はフランスのクリュニー修道院とかそのくらいでしょうか、ここは若干開き直って権力者専門の豪華な典礼を取り仕切っておられたようですよ。)
(まああと、新しい会の創設とともに、他の会にも引き締めの効果はあった模様。)
この人たちの信奉していたのが“ベネディクト会則”が主だったのだとか、どんな時にどんな人が出て、托鉢修道会まで至ったよという歴史はあるんですが、この本は入門書といったところ、ある意味で修道院そのものは常に活力ある集団であり続けたということになるのでしょうか(常に新しい会が作られていたのならば、逆にね)。