『都市と防災’08』#13 都市の復旧と復興

この回にゲストとして来ていたのは1999年9月の台湾集集(チイチイ)地震や、2004年のスマトラ沖の津波の被災地などに行っているという方だったんですが。
都市環境がむしろ災害のあとで拡大するよっていう実例がぽちぽち。
古くは1666年ロンドン大火でも実現はしませんでしたが都市計画が立てられ。
1871年シカゴ大火では800ヘクタールが焼け、エレベータが開発され高層ビルそのものの発展が促されたのだ、ということも。


関東大震災というと後藤新平はよく聞きますし、そこで経歴が紹介されているのもよく見るんですがもともと医者で内務省衛生局、そこから台湾総督府民政長官、東京市長に。
という経歴を踏まえて“だから医療従事者の目線からも都市計画を立てられたよ”という結論になってるのはちょっと見たことがなかったんですが、あ、なるほど。
んで、内務大臣兼帝都復興院総裁、東京の都市復興計画立案となりました。
もともと1919年に都市計画法市街地建築物法に公布されまして。
1921年都市計画地図で官庁街の建設、街路網の充実がされていたところに1923年の「関東地震」10万人の被害者が来た、という順番…、なんかちょっとすごいな。
計画自体はよく知られているようにかなり縮小してしまったんですが、昭和通り/震災復興公園(大公園3、小公園52)/不燃構造の小学校/同潤会アパート/区画整理による都市改造/隅田川沿いの橋梁、吾妻橋などが実際に作られたようです。
東京大空襲時は約2万ヘクタールの復興計画は1650ヘクタールとなったものの山手線や総武線、中央線周辺が実際に手を付けられたそうで、ああ、今でもその名残りあるのか。
最近だと阪神淡路沖震災の「真野地区」が震災前計画が復興に役立ったそうですよ。