「関東大震災を歩く: 現代に生きる災害の記憶」武村雅之

大雑把に山手線の外側、23区外の西側に住んでいるので、私の家の近く、というと寺院が移転して来た話(ところでもう誰が移転を決めたのかが曖昧になってるんですね、住職さん同士の関係と東京市の推奨の分しか判明してなかったようなw)とか、震災後のデマによって殺された朝鮮人の工事夫たちがいたよ、というくらいだったんですが。
そういやこの辺の街路樹でもよく見掛けるような気がしますね、イチョウの木。
なんでも多くの水分を含んでいて防火に役に立つのだとか、実際に関東大震災の時にも黒焦げになった後に再生したという話が幾つもあったらしいです。ああ、東京都のイチョウマークってひょっとしてそういう意味なのかなぁ。


時々話を聞く関東大震災の東京の被害者の数割が亡くなった陸軍被服廠跡がどうももともと両国橋を使って避難するつもりで集められていたのに駄目になったとか(てか両国橋ってことは回向院も近くですよね; 明暦大火の時の慰霊碑なんだよあそこ)、その地に運び込まれた家財道具や大八車が延焼したとか、ただそれは、もともと江戸の度重なる火災の中で危険なことだと十分わかっていたことらしく、実際別の場所では家財道具の川への遺棄を警察官が独断で命じて助かったところもあったとか。
煉瓦作り自体が地震に弱いわけではないんだけど(東京駅とか無事だったしね、あれは空襲でやられました)、きちんと造ってないとどうしても駄目、木造住宅が火災を食い止めることが出来ないのは見たらわかるんですが、でも火元になるかどうかは別の話で住民が時間差で襲ってきた火を鎮火し続けたなんて例もあるみたいですしね。
被服廠はなんかほぼ周囲が一斉に火災になったらしいので、そういう意味でも不幸だったなぁと、私、今村明恒さん知らなかったんですが、昔から警告してる人いたんですね。