「東京都の誕生」歴史文化ライブラリー135、藤野敦

人口比としては10%しかいない武士が江戸においては50%存在し、それとほぼ同数の庶民が15%の土地の中にひしめいていた、ということをとりあえず本での評価を無視して噛み締めてみると地味に思ったより武士が住んでる地域が多かったような気がするというかw

東京の下町、と呼ばれる地が結構思ったより選ばれた土地なんだなぁとか。

江戸城は世界最大の面積を誇った、ということが言われているのですが、その外堀(中央・総武線と平行してるあのお堀がそれ、あと内堀もあります、丸の内ってのが城の中核部分だよ、地名の丸の内です、確かに江戸城でかい)の部分までを江戸城なんだよん、と考えると大層広いんですが、同時に江戸の範囲がそこまででーす、と考えると正直狭い。

その上で人がみっしり住んでいたのがその15%、ということになると。

明治政府の頃に「東京」の土地をばら撒いていたのもわからんでもないし、ぶっちゃけ軍事施設を市街地に作ったのもそれ自体は仕方ないことだった気もしないでもないですね。

あとから玉川上水の管理と、甲武鉄道という今のJR中央線の前身が作られた結果、多摩地域との交流が増えて北多摩郡が主なけん引役となって東京府に所属することになったとか、その前は実は多摩地区は神奈川県に属していたんだとか。

などはわりと知っていたんですが、他に品川県という県が存在し。

とはいえ、武蔵野新田系(江戸の空前の食糧難に対抗するために推奨されていた開拓地、なので当然優遇措置がありました)の土地が待遇改善を求めて大きな騒動を起こし、結果的に国家レベルにまで至ったため制度改革は行われたものの品川県は解体、周囲に吸収。

 

などという諸々のことは知りませんでした、というか結構東京って範囲曖昧で事情ですぐに変化するんだなぁ、という印象。首都機能のために一番犠牲払ったってことなのかもね。