「碓氷峠の一世紀-運転史から見た横軽間の104年(上」RM LIBRARY-39、三宅俊彦

碓氷峠の一世紀―運転史から見た横軽間の104年〈上〉 (RM LIBRARY(39))

碓氷峠の一世紀―運転史から見た横軽間の104年〈上〉 (RM LIBRARY(39))

サブタイトルの「横軽間」というのは横井-軽井沢間だそうですが、これが碓氷峠、この碓氷峠というのは、んー、かつて日本の鉄道の黎明期に東西間の幹線として東海道ルートが決定する前、中山道か東海道か、ということで検討された古い道ですね。

律令制の頃とかそんなレベルなんで正直いつからなのか正確にはわからないらしいw

 

で、防衛上の観点から内陸を行く中山道優位とも言われていたんですが(江戸時代は実際、東海道と中山道は遜色ない選ばれ方だったんだって、中山道はむしろ女性に人気だったらしい)、実際に測量をしてみると結構な勾配が存在し無理、ということで東海道に決定。

で、その中山道の最大の難所が碓氷峠だったので、要するにここが無理だったと解釈してもまあ大袈裟すぎるというほどでもないような。若干大雑把だけどね。

なのでまあ、結構な鉄道黎明期の頃(明治20年ですね、最初の東京馬車鉄道が明治15年)にある意味で山中に突然馬車鉄道が開業、と聞いて(それよりもさらに前にアプト式で建設計画)びっくりしたのですが、特別な土地だったんだろうなぁ、あと正直サイズが不思議っていうか人車鉄道みたい、上等が1頭引き乗客5人、下等が2頭引き乗客10人。

その後この馬車鉄道も使って路線が建設されまして、開業後、馬車鉄道は当然経営が成り立たなくなるのですがなんの保障もされずに放り出され。というところまでで歴史パートは一旦終了、あとはどうも下巻になるみたいですね。

正直信越線やら上越線やら、あと特急の歴史やダイヤ改正が延々と続くんですが、わかる人にはわかると思うんですが私にはちょっとこれだけだと無理かも。沿線の発展や需要の変化などもあるとは思うんですが、他線との絡みや技術や戦中の事情なども多かったのかな?

この区間通るために特別な仕様が必要で、そうなると余所に回せないのは基本っぽい。