『八重の桜』#38 西南戦争

会津討伐から10年という歳月が流れて、今度は維新の立役者であったはずの西郷隆盛が意見の対立により故郷に戻り、そこに不平分子が流れ込んで、というところまではわりと教科書にも書いてあって、比較的記憶されてる歴史上の出来事ではないかとは思うんですが、これは一体なによ、ということを考えると実は非常にわかりにくい。

新島八重というそれこそ敗軍である会津の女性を題材にした大河に、その構造を明確化して欲しいという要望を出すのは本気で見当違いだろうとは思うものの。

この「わからなさ」というのが案外大事なのかなと思えなくもありません。

会津以前の長州討伐も、会津も、薩摩の西南戦争も(西南の役とも呼ばれますね、体制側が語る時の用語だとか)、それこそ全員が顔見知りのような状況になってしまって、また同じことが! と憤る八重さんと覚馬さん以上の意味って本当にないんじゃないのかなあ、と。

 

長州の木戸さんが「膿を出さねばならない」と言い、会津の覚馬さんがその無意味さを嘆き、会津の残党は薩摩の西郷隆盛と会って、その全ての無意味さに叫ぶみたいな。

なんとなくわかるけれど、実際にどこがどうしてそうなったのか、単に職にあぶれ、意見が受け入れられずというだけのことならば、あまりにも人が死にすぎではないか、という以上のことがなんにも言えない。これ以上の禍根を残しては駄目だ、全て終わらせなくてはならないという、非合理的な考え方すら、長い年月の無意味な争いの前ではもう本当にそれしかないのではないかと思わせないでもない。

でもやっぱり、そんな虚しい結論に至って欲しくないです。現代人なのでやっぱり。

覚馬さんや、八重さんや、新島襄は別の道を拓くんでしょうか、そのための話なのかな。