『現代日本の政治’11』#12 福祉国家と政治

この回の講義の趣旨は、どうして先進国では福祉政策を重視する傾向が芽生えてくるのか、という分析だったんですね。福祉国家とは、という分析だと思い込んでいたんですが、よく考えてみたら確かにそれだと途中からか。

モデルケースとして安全政策のみを行う国家で、一人だけ大金持ちがいて、それ以外の人たちはその数分の1にも満たない収入の場合、安全保障においてどのような費用負担の割合にするのが「平等だと思うか」ということを質問した場合、圧倒的に大金持ちに多額の負担をさせるという回答をするのですが(収入に応じて変わる累進課税人頭税は一律負担)。

続いて10年振りに会った友人が大金持ちになっていたとして、ちょっとお金下さいと言いますか、ということを聞くとその回答はほぼ言わないというものでした。

費用負担を他人に求めるのは同じなのに、どうして回答が変わるのか、というのがとりあえずのテーマで、ここで出てきた答えが直接見えない相手であるから、その相手に要求することが出来る。国家が替わりに徴収してくれるから、という話になったんですが、ここで大金持ちを自分だと仮定すると、知らん他人よりも友人にお金費やすほうがマシだな、という発想になる人も少なくなく、これを国家に置き換えると、ええと、難しいなw

 

この辺がハロルド・ウィーレンスキー『福祉国家と平等』の収斂理論なのかな、あと、先進国の場合特に、収入を平均すると半分以下の収入の人が過半数を超えるということが実数として現れるらしく、そうすると過半数の人の金持ちに厳しい意見が通りやすくなるんじゃないかな、ということが述べられていたんですが、これが階級間連合モデル。

で、その平均収入以下の層に訴える政治家が出てくるというのが「手柄争いの政治」。その後、予算の問題で削ろうとするのがポール・ピアソンの「福祉縮減の政治」かな?