「豊多摩郡の内藤新宿(19世紀末の)」新宿区立図書館資料室紀要2、東京都新宿区立図書館・編

とりあえず内藤新宿(内藤家が元の土地の所有者だから愛称みたいなものですね)というのはもともとの村だった四谷の外側にあり、さらにその一種の繁華街として存在していた内藤新宿の外側に今の中央線や山手線の駅(名前違うしまだ全然短いけど)があったんだよ、というところまでは知っていたんですが、近くに牡丹園に鴨場、南町と呼ばれるスラム街のような地域があったところは知りませんでした…、あらそうだったのか。
自然公園が近くにあるから牡丹園まではなんとなく想像付くんだけどね。
発刊は昭和43年、巻末にある地図が明治35年の頃を再現したものなんですが、市電がそこから2年後くらいに来るのでちょっとだけ地図で触れられてはいました。本の中ではほとんどその辺の交通機関に関しては触れられてなかった気もします、中央線に乗るのに何時間もお茶屋さんで待ったとかそういうことくらいですかね、むしろ庶民はあんまり移動が一般的でもなかったみたい。
それとかつて天竜寺がこの地域で非常に大きな勢力を誇って、ということが書かれていたんですが、その後どうなったのかはちょっと不明だったなぁ、一時的な寵愛によるものだからその後すぐに縮小してしまったんでしょうか。

 

やっぱり大きな比重を占めていた半合法(街道の宿場を維持するための資金源でした)の花街の話になると、女たちにとっての苦界なので針やハサミなどは徹底的に身の回りに置かず、一つの部屋のみに集められていたなんて話や、投げ込み寺の話なども、確か内藤新宿では飯炊き女たちの名前だけはきちんと記しておいてくれてたって聞いたことありますね。
南町について語られたところでは教育や、食事に気を配ってくれた女性の話、ああでも、鴨場の話だと関わるのはどっちかというと上流階級なのか。不思議な土地だよなぁ。