「駅の社会史-日本の近代化と公共空間」原田勝正

 

そもそも「駅」というのは街道筋に設置された馬を置く場所で(宿場より機能が減らされたみたいな感じですね、宿場はわりと名前が残ってるんだけど)、明治の頃にはまだ残っていたもので昔から鉄道の駅を駅って呼んでいたわけではなく、いつ頃にどうして呼ばれるようになったのか、というのが時々検証されているのを見るんですが、どうも曖昧みたいなんだよね、その辺。初期の頃はそれこそ正式にステーション、庶民はステン所なんて呼んでたりして停車場ってのが提案されてるんですけど、いつの間にか駅が定着し。
最古の路線である新橋も横浜も駅が当時とは移転してしまい、その路線が選ばれた理由も実は都市と港湾を結ぶってのは西側諸国の植民鉄道の常だったんだよね、だとか。
(でも当時、すでに東西幹線が計画されていたので植民地扱いを逃れるための諸端はそこにもあったんじゃないのか、と述べられていましたり。)
当時の小説の中に出てくる登場人物たちは、それが架空の存在であるから逆に当時一般的な階層や職種を示しているんだろうね、なんて話はどれも結構面白かったんですが、これらが無分別に一つの文章に詰め込まれてるのはちょっと読む側としては辛かったかなw

当時の駅が木造であったせいか、よく移転していたんだよね、というのは始めて聞いた気がするんですが、その移転した駅舎も多分ほとんど今は残ってないんだろうなぁ。
戦時中の出征兵の見送りが、旗振って盛大に、というイメージに反してその列車を見ることすら禁止されていた、というのも不思議な話だったんですが、何度か詰めかけすぎて事故が起こってることもあるし仕方ない部分もあったんでしょうか。
しかし、終戦直後からの数日間、新宿から中央線に大量に集められて乗せられていた女学生たちの話は、なんであんまり語られてないんだろう、ちょっと不思議。