「鎌倉幕府草創の地・伊豆韮山の中世遺跡群」遺跡を学ぶ072、池谷初恵

鎌倉幕府草創の地―伊豆韮山の中世遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

鎌倉幕府草創の地―伊豆韮山の中世遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 

 

んーと、大雑把に伊豆半島がありましてその真ん中辺りに伊豆韮山、伊豆半島の付け根辺りに箱根、街道沿いにつながっているのが小田原、今ざっくり日本地図を調べていたんですが鎌倉もあれか、東海道沿いでつながっているんですね。
で、要するに源頼朝がもともと流された土地ってことだよなぁ。
鎌倉時代には各地から鎌倉に通じる道が作られたっていうのを聞いているんですが、この伊豆韮山もこの立地だし普通につながっていたんじゃないのかなぁ。
あと地味に気になったのが、室町時代の「堀川公方」ってあれだよね、足利将軍の血統争いがあった時に迎え入れられたのがここの家ですよね。
その上、鎌倉北条氏(大雑把に言うと北条政子の家っていうか執権っていうか)の血統である後北条氏(小田原北条氏って呼んでた人もいましたが)の初代である北条早雲がこの地の出身で、小田原に本拠地を移したあとも彼だけはこの地に残っていた、みたいなことが言われていたんですが、うーん、だいぶ重要な土地って認識でいいのか。
でもあくまでも重要な土地の周辺地って位置ではあるんですよね。
でも鎌倉が廃れてもむしろこの土地はその後まで残ってるってことになるのか。

 

この本は遺跡に関してを語る本なので、ここで触れられていた歴史は遺跡の場所を同定するためだけの重要部分のみのはずなんだけど見事に連続してるよなぁ。

小田原北条氏は名君続きって言われてますし、江戸時代にはすぐ近くの箱根が湯巡りでだいぶ有名だったらしいんで、そこから程近いこの伊豆韮山がそこまで廃れた気もしないなぁ、富士山も近くにあるし伊豆半島
源頼朝がこの土地に「流された」時点でさして厳しい罰じゃなかった可能性あるのね?