「天下統一の城・大坂城」遺跡を学ぶ043、中村博司

天下統一の城・大坂城 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

天下統一の城・大坂城 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 

 んー、今の時点でもうちょっと読んでもいいかな、という気分なんですが(岩波新書で『大坂城』というまんまなタイトルがあるようで)、何回見ても徳川側の戦い方がえぐいというか、大坂城観点で見ると丸裸にされてるというか、正直今まであんまり考えたことがなかったもののこれって家康の戦い方にはあんまり見えないなぁ、家康のって若い頃のしか知らないですけど結構スタンダートだったよねぇ弱かったけど。
大雑把にもともと大坂の地(江戸以前がこの表記、とありましたが旧名なことしか知らん)を発展させたのが本願寺と言われていまして、そこに目を付けたのが織田信長、戦闘と和解を経て本願寺が父と息子に分裂…て本題からズレますけども時々「両本願寺」って呼ばれてるのこれなんでしょうか、いや自信とか全くないですが。

で、信長を継いだ豊臣秀吉がどうも大坂本願寺を土台にして大坂城を作ったらしく、これもちまちまと意見が割れている上に現在の「徳川期の大坂城」が特別史跡となっているために発掘調査もままならないようなんですが、まあ普通に有力説としていいのかな。
そしてその後、大坂冬の陣、夏の陣を経て堀が埋め立てられほとんどなす術もなく敗退していった、というのが大坂城の状況を見るとよくわかりますね、見事に丸焼け。むしろ堀がない城って足手まといにしかならないんじゃないかっていう…。
徳川時代にはどうも初期の頃にはほとんど手を入れられなかった時期があったせいか「豊臣期の大坂城」が壊され掛けた形で残っていたり、わりとじーわじわと復興してった感じかなぁ、この地に入った松平忠明が無理をしなかったのはなんとなくわかる。
そしてさらに15代徳川将軍・慶喜の代に彼が逃げ出したのちに出火、江戸時代の最初と最後に燃えたってのもなんか数奇な運命だよなぁ。理由も不明っぽいのねこれ。