『日本の美術171 国分寺』三輪嘉六・編

国分寺ってのはそもそも微妙にどういう意図で作られたのかがわかっていないようなんですが(いやもちろん名目はあるんですけども「護国のため」って言われてもね、仏教の全国的展開のためってことならお題目っぽくても意味わかるんだけども)、どうも見ている限りでは乗り気でない国もあったようで、もともとあった寺を改築してお茶を濁したり、なかなか進まず、督促が行われた形跡があったらしいとか。
それと当時の話ではないながら、現在も国分寺として残っている寺院も多少なりとあるものの、その場合はむしろ建物に手が入れられてしまっていて当時のままではない。
早いうちに廃れてしまっている場合は場所がわからないなんてこともあるみたいですね、まあでも一覧を見ている限りでは国分寺のほうがわりとわかっているのかな。
武蔵国府がわりと最近見付かったってことはたまに本でも読むなぁ。)
あと、何度見てもよく理由がわからないんですが、当時の規模の中で武蔵国分寺が最大っての、正確な広さで聞くとなかなか圧巻でした、あくまで敷地がであって建物がそこまで大きなわけではないらしいんですが、他の一回りくらい大きいなww

そういや総国分寺である東大寺法華寺(総国分尼寺)、かなり特別な飛鳥寺(法興寺)に関しては国分寺のスタイルとして挙げられていたのはわかったんですが、興福寺ってのが「国分寺の形式の中で一番多かった」と言われていたのに特に紹介されていなくていろいろ謎でした、藤原氏の氏寺ですよね、なんでだろう?
この当時はまだ一般的ではなかった瓦屋根が寺院では使われていた、というところからして、渡来系の技術者が担当していたのかなぁ、と思うんですがどうなのかな。
実際国分寺ってどういう運用の仕方されてたんでしょうね、まだ研究途上かなぁ。