「中世日本最大の貿易都市・博多遺跡群」遺跡を学ぶ061、大庭康時

中世日本最大の貿易都市・博多遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

中世日本最大の貿易都市・博多遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 

 

そもそもこの手の九州北部、博多の近辺って大雑把に捉えていいものなのかなぁ? 貿易港として語られていることが多いんですがそういうことが語られている時に「中央政権」とか「中央」とか妙に曖昧に触れられていることが多いんですが(まず商人が港に付いて、それから中央にお伺いを立てて受け入れる受け入れないが決まる)、判明してないんじゃなくて中央の政権が変わってもここの機能のほうがそのままなんですよね。
ここでも軽く触れられていた大宰府なんかもその一環で多分最大のものだと思うんですが、商人の受け入れ機関としては鴻臚館が存在し、そこが燃えてしまったあとに出てくるのがこの博多遺跡群、どうも外国人居留地らしいんですが明確な名前がないみたいね。

要するに中央とのやり取りに時間が掛かり、自由裁量がないものの返事が来るまでは現地の裁可で執り行うしかなく、貿易の品はかなり高価だったので時代が下るにつれて認可が下りなくなったはずなのに商人の数は増えたらしいので、まあ、密貿易やってたんだろうね、そしてそこは記録には残せないよなぁ、という話を大宰府の本で読みましたがw
で、まあ当然のことながら自立心が高く、外部からの文化に抵抗が薄く、隠れキリシタンの騒動の時も非常に人数が少なかったという話をやんわりと。
この博多遺跡群もあくまで中国人商人がいたんだろうな、というのも名前や物によって理解している形なんですよね。そもそも妻は日本人だったみたいだし、大陸の米食地域から来てるはずなのになんだか麦の消費量が多いみたいだなぁ、とか。
どんどん発展していってある程度混乱してくると一斉に作り直しが行われていたり、誰か協力なリーダーが存在しただろうと見られていたり、日本の陶器があんまり多くなく本場の唐の陶器を持っていたみたいね、とか、この辺学説にまとまるのかなぁ。楽しいね。