「筑紫政権からヤマト政権へ・豊前石塚山古墳」遺跡を学ぶ022、長嶺正秀

筑紫政権からヤマト政権へ・豊前石塚山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

筑紫政権からヤマト政権へ・豊前石塚山古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 

 

若干地理などに疎い関係で一旦読み通したあとでその内容が頭からすっぽ抜けていたんですが、とりあえず、九州の大宰府近くの友人が現地で伝えられてるという内容と中央の記録が全く傾向が違うのであまり信用する気になれないってのはちょっとありますw
が、確かにまあこれだけ神獣鏡が出てきて宇佐神社が近くにあって、みたいなのを見ていると「ヤマト政権」とのつながりは感じないでもないかなぁ。
なんというか、大雑把に同じやり方みたいなものがありますよね、本の中で語られていたのは中国から渡ってきた威信財をあちこちにばら撒くことによって、みたいに言われていたんですが、あー、うん、なんとなくわかる。
本の中ではこの豊前の石塚山古墳群のことを大陸(というより半島じゃないのかなぁこの北九州だと、どうなんだろう?)からのルートって書いていたんですが、下関よりも内陸側に食い込んだ土地にわざわざ集めてるなんか違和感があるような。
それよりあれだよね、八幡神社の縁起の一つにあるような、神功皇后の軍事行動活動拠点だったってほうが違和感ない感じの土地だよなぁ。
あ、あれです、八幡神社の元宮って言われてるのがどうも宇佐神社らしいので、ちょっと南下したところにあってちょうど地図にも載ってますよね、この古墳との関係があるらしいことはそんなに違和感なく触れられていたようなんですが。

北九州最大の130m級の前方後円墳、と語られていたんですが、全国的に見ても大きいよねぇこれ。古墳がそもそも人の名前を記さない習慣だったらしいので仕方ないのですが、もうちょっと全体的に把握していかないとなんともならないんでしょうね。
てか、3世紀って大宰府よりも前なんだっけ? 研究途上だねぇ。