「加悦鉄道(上-丹後ちりめんを運んだ「絹の鉄道」」LIBRARY-180、NPO法人加悦鐵道保存会

加悦鉄道(上) -丹後ちりめんを運んだ「絹の鉄道」- (RM LIBRARY 180)

加悦鉄道(上) -丹後ちりめんを運んだ「絹の鉄道」- (RM LIBRARY 180)

 

 

大正15年開業の、えーと、726mmゲージで最後までかな? 廃線が1885年(昭和60年)で「丹後ちりめん」の輸送用として近隣の国営路線までを接続する目的でほぼ民営地域資本によって作られた鉄道で、上巻で廃線まで至っているのでどうして上下巻なのかはわからなかったんですが、ひょっとして保存SLなどの関係かなぁ、「加悦SL広場」という単語ってどうもどこかで見たことあるような気もする。
もともと京都府丹後半島の付け根の辺りに存在するのがこの加悦地方で、かつては京都に送っての加工を行っていたというちりめんを現地で生産まで行うことに成功したものの、けれどその輸送機関に乏しかった、ということが説明されていたんですが。
鉄道の歴史としては大江山のニッケル鉱山とその製錬工場とをつなぐ引込み線が作られて日本冶金工業の傘下に入り、鉱山の歴史と共に廃線を迎えてしまったのでこの丹後ちりめんのほうがどうなったのかは結局触れられてなかったのが残念。
(ただ、鉄道輸送目的で作られた路線って、実際あんまりその後の記録に残ってない。)

そもそも大正15年というとそのまま昭和1年で、昭和4年には世界恐慌、その後の産業界そのものの不振と、その後の戦争突入って時代だよなぁ…。
ニッケル鉱山関係に経営権が移ったのが昭和14年のようですが、戦争とは無関係の事情ではないのかもねぇ、車両不足を訴える口調が当時にしては珍しく強気、と書かれているんですが、それも多分軍需があるからではないかと推測されているんだよね。
ニッケル鉱山そのものはわりと需要そのものや国外との価格差などで休眠したり復活したりしているのですが、休眠の間に路線事情が悪化、トラックへと切り替えになり、それも廃線の理由の一つではあるんだろうなぁ。