『日本の美術40 鎌倉彫刻』西川新次・編

このまま次に予定している『藤原彫刻』を読んでいるところなんですが、平安時代後期に当たるということでまた前の時代で遡っちゃうのね(前にも同じレーベルで刊行順に読んでいたら時代遡っちゃったんだよね、ほぼ同時期の雑誌スタイルなのでさすがにまとめて企画されたのは見たらわかったし、他の号に言及していることもあります)。
んー、まあ、院派・円派の京都仏師と、慶派の南京仏師の関係に関してはそっちを読んだほうがちょうど分離しているところなのでわかりやすかったんですが、実際の執筆順で読むほうがやっぱりわかりやすいんじゃないのかな。
すごく大雑把に、鎌倉時代に中央の仏師が地方の仏像を手掛けることがあった、という認識をすればいいのかな。
特徴としては、えーと、院派・円派の京都仏師と、慶派の南京仏師(奈良ですね)で傾向が違ったんだっけ、さすがに運慶・快慶くらいは知ってるんですけども、わりと荒々しくて写実的だったよね。

で、この時代を読むたびに重要トピックとして出てくる東大寺興福寺平氏による炎上と、その後、この復興事業に京都仏師が選ばれたので南京仏師が鎌倉幕府源頼朝に文句を言って、という経緯が書かれていたんですが。
何度読んでも機微がよくわからない…。
鎌倉幕府が南京仏師に遠慮している節があるのは、平氏がこの焼き討ち以降民衆の怒りを買ってしまい、結局その直後に追討令が出ることになり、平氏の縁者も源氏も民衆慰撫にわりと必死で奈良の寺院の援助していたことが関係あるのかもw
技術が民間流出するのもまあ他の分野と一緒だね、もうちょっと全体像欲しい。