「邪馬台国の候補地・纒向遺跡」遺跡を学ぶ051、石野博信

邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)

 

 

大雑把に現在信用しているのがこの纏向遺跡そのものが宗教を中心とした平和な土地だったのだろうということ(それで邪馬台国だったのかそうでないのかの意見が別れるみたいなんですが、まあ、そこはおいおいでいいんじゃないのかな、何度か別のところでも書きましたが、逆に「纏向遺跡の性質を考えると邪馬台国そのものが平和な連合だったのではないか」という説も見たこともありますし、どっちの説の積み立て方も別に間違ってないと思うんだよね)(で、どっちにしろ纏向遺跡に関しては性質の意見は同じ、と)。
まあ、そしてだからゆえ、邪馬台国とは関係ないんではないかなー、という説に。
ちゅか、前に見たことのある北九州のやっぱり邪馬台国の有力候補地の近くだっけ? というか遺跡がなんか確定出来なさそうなので漠然と北九州ってことでいいのかな、あの地域に大和国(今の奈良県)と形式の似た建築があったみたいな辺りに触れてあると嬉しかったんですが、ひょっとして纏向遺跡ではなかったかな…。
なにもかも曖昧ですみません、正直、最近までほとんどきちんと興味持ってなかったからなぁ、いくつか比較的緻密な説があるのを見て考えを改めたものの、それ以前はどうにも読み流していたんですよね…。

 

で、ざっくり言ってしまうと北九州の遺跡やこの纏向遺跡に関しては「そもそもだいたいの時期は合ってる」んだよね確か。
ということはこの遺跡のところにあった集団というか組織はまあ邪馬台国などとそれなりに近い時代に存在していたということになるのかな…。
邪馬台国かどうかって、ここ調べてもわからないだろうし、ここに影響受けた周辺地を探せばいいんでないのかな、違うかしら。今後の研究を待ちたいです。