「古代武蔵の国府・国分寺を掘る」府中市教育委員会/国分寺市教育委員会・編

最近、武蔵府中に興味が出て、いろいろ地域の資料や古代の文献などを読んでいるものの、本来国府と必ずセットになって位置が示されることの多い国分寺の存在がなぜか妙に武蔵国では薄く、でもまあ、地名にはなってるよねぇ? でも発掘されたのは最近とか、道がほぼ完全な形で見付かったとか(早い段階で埋もれた可能性が高いって意味ですね)。
あまつさえ、いつなくなったのかよくわからない、とか、なんかちょっとおかしい。
で、この本を手に取ってみたんですが、新田義貞の鎌倉攻めの時に燃えたんなら一言で済むそのくらいは把握しておいてもいいんじゃない?! とか、でも多分、その時点でかなり長く放棄されていた様子ではあるとか、特に再建して貰おうともせず、薬師寺? 薬師堂かなにかだけ作って貰ったそうです。
その上、そこに散乱してる石瓦を江戸の頃まで「祟る」って言って持って返ることもなく延々と放置していたらしく、絵にまで残ってます。ちょっと、ちょっと何年放置だ…。
あと、そのあとで瓦が出てきてたんですが、これ、国府のとは時期が違うのかなぁ?
それとも手を抜いたんでしょうか、武蔵国府の瓦って凝ってて可愛かったような。
(あっちも埋もれてた上場所すっかり忘れられてたけどね隣の神社に!!)

だが、大宰府近郊の人に聞いたところによると「武蔵国分寺が日本で最大の国分寺だよー、知らなかったの?」と言われてしまい、特に重要度が高かったわけでもない武蔵の国がなんでそんなことになったのか、そしてなぜこれほど放置されているのかと合わせてますますわからない。おまけに現代になってようやく掘ってるうちに自治体は遺跡貫いて水道を通す、遺跡の中の土地が勝手に分譲される、挙句の果てに小学校計画が出来る。
もっと文化を大事に! と言われても…古いもんもともとたくさんあるよ他には?!