「マヤ文明−失われた都市を求めて」クロード・ボーデ/シドニー・ピカソ

さすがに、“マヤ文明そのもの”に興味があった、という人にとっては肩透かしの内容なのではなかろうかとは思いますが、この時代を前後してまとまっているこの大陸の史料(歴史を語る目的で書かれたものが史料、それ以外の実用記録や物の証拠が資料)を読むつもりの人にとっては悪くない客観の視点ではないかと思いますし。
この元の本をフランス人が書いた、というのもいかにもいい距離感ではないかと。


大雑把に言うとマヤ文明を一旦スペイン人らが見失ってしまった後に再発見され、それがアマチュア考古学者(中南米はなかなか来たくて来れる土地ではありませんでした)から一体どんな扱いを受けたか、ということが前半。正直、ここでこんなに詳しく検証されてもなぁ、ということを思わないでもないんですが、スケッチの類がどれだけ適当だったのか、元の意匠を無視したのか、ということがこれでもか、これでもか、と資料付きで語られ。
学者たちは学者でやれギリシャだローマだオリエントだ、とその建築の影響元を真剣に話し合っており(石造りの建物というと他に知らない! というのがその主な根拠です)(茶化してるんじゃなくてこれで真面目な話)(ケルトの巨石文明はどうなるんだろ?)。
そんな中に現れたのがこの地に対して興味を持って赴任を希望した30そこそこのアメリカ人青年と、彼と意気投合したスケッチ担当のイギリス人青年。
この彼らが出版したのが3分の2ほどを冒険談で占め、残り3分の1をわからないことは素直に棚上げした正確な記述ときちんとその地を写すつもりのあったスケッチで。要するに彼ら以降、この地から妙なロマンチストたちが衰退した、というご結論の模様。
残念ながらこの後重要な発見をしたフランス人とイギリス人辺りで記述は途切れ、肝心のマヤ文明に関してはほぼ語られてなかったんですが、まあ、これはこれでありかなと。