『日本の美術126 禅宗建築』伊藤延男・編

前にここに出てきていた東福寺を美術関係の本で見掛けて、その後見失っていたんですが、あー、禅宗の中での有力寺院だったのか、というか京都五山の第4位だったのね。東大寺興福寺から一文字ずつ取っていたので不遜ではないか、みたいな言われ方をしていたものの、権力者の意向と禅宗の思惑との合致だと、その後特に批判されなかったのもわからないでもないな。
ええと、そもそも日本に禅宗が入って来たのは臨済宗栄西の時代。
この人はそもそも天台僧で、さらにのちに密教もやっていて、東大寺の勧進職にあった時には独創的な鐘楼(しゅろう)を作っているし、香椎宮に報恩寺、博多には聖福寺、比叡山に迫害を受けて鎌倉下ってそこで寿福寺鎌倉五山の第3位)、さらに鎌倉将軍の頼家の援助にてのちに京都五山の第3位となる建仁寺を作ったそうなので。
建築好きだったんでしょうか、すみませんなんか違う気がする。
いや、なんかつらつら書いてしまったんですが、この初代の禅宗のあり方がその後の禅宗建築への影響与えてるような気がして、ならないんだ。
で、彼の弟子がぽちぽち出て、それから曹洞宗が伝来。
中国から僧が招かれるようになって、そこからその流派が生まれて。
で、五山十刹が定められてー、ううん、これが南北朝時代なのか、わりと足利政権と禅宗の距離が近い印象なんですがこっからどうつながるのかがわからないなぁ。

建築としては私にはよくわからないながら、不便な土地や山にも建てられたっぽいなぁ、そもそも「山号」を持ってるのが禅宗寺院ってのも初耳でした。
八角多重塔が禅宗建築ってのはなんか知ってたよ雰囲気で! 南宋の流れなのかな。