『日本の美術216 大宰府跡』石松好雄・編

そもそもこのシリーズが「日本の美術」だったのでどういう観点で大宰府が扱われているのかわからなかったんですが、うーん、特にデザイン方向からのアプローチではなくて普通に遺跡発掘メインということでいいのかなこれは。
考えみれば古代史に関してや遺跡に関して大きく動いたのがどう頑張っても昭和60年代くらいからしかないことを考えると、他に受け入れる場所がなかったって認識したほうがいいのかもね。正直現代から見ると情報が古いんですが、昭和59年だと妥当かもね。
その代わりにどのような予測でもって発掘が行われ、どのように修正されたり、地域が確定されたり、ということが触れられているのでちょっと面白かったかな。
私はここから20年くらい経ってる時代の資料を見ているので大宰府が水路を使っていたのだろう文献資料からの抜粋なども見ていて、例えば「水城」という単語にも特に違和感はなかったんですが、まずその点に関しても実際に水路があったのかなかったのか、と意見が別れていたと聞いて、正直ちょっと不思議だったんですが、文献が残っていてもそれをきちんと読み通したり研究してる人がいないと一から探すことになるってことだよね、これ。
まず先に水路跡が見付かり、水城の機能が見当が付けられ、文献の中からもそれと対応するのだろう記述が見付かった、と、そんな感じかな。
(もちろんこの辺の順序は適当に言ってるけどねー、まあそんなに離れてないと思う。)

平成以降の本だとほとんど出てこない多賀城に関してちょいちょい触れられていたのも発掘段階で似た構造であるから、という意味で、要するに推測材料なんだろうね。
瓦に関しては実物には見覚えがあるんですが、このあと各地で発掘されてどの流れの中に含めるかと認識されていったような感じなのかな。ああ、古代史研究そのものの初期か?