『権力の館を考える '16』#10「関西の館(1 大阪城天守閣と旧第四師団司令部庁舎」

この講義で語られていたのはえーと、一時東京を抜くほどの人口になった大阪に公園を作りたい、が土地がない、大阪城がいいんじゃね? いや待て、あれを持ってるのは陸軍だから無理なんじゃないのか、ということになりまして。
まず陸軍に、おたくの宿舎を建て替えます。市民から寄付を募ってと申し出。
ただ、市民の名目がそれだと寄付が集まりそうにないので大阪の天守閣の再建ってことでどうでしょう! みたいな話になりまして。
で、この話が確か1930年第で、どうもその前年の万博? だったっけ、まあパビリオンの類で2階建てのなんちゃって天守閣が作られていたそうです、で、それを見たら本物が欲しいって発想にすでになっていたんだとか。
まあ実際に宿舎はちゃんと建て替えられたみたいなので騙されてはいないものの、公園として開放するって話がどこでされたんだろう、寄付されたんだから自然な流れではあるし、そもそも敷地全部使ってたわけでもなさそうなんですけどね。
 
この話見てると、正直当時の陸軍が後世のイメージのように威張ってるわけでもなさそうじゃない? みたいな発想になるのもわかるんだよね。
今ではカソリックの女子校になっている建物があるとか(確かに階段の使い方は学校と似てたし、転用は可能そう、というかもともと学校だったのかな?)、九段会館はかつてなんか天守閣っぽい建物が洋式の建築の上に乗っていたのでそれを持ってして日本の軍国主義の表れだ! と言われてたらしいんですが、でもそこ、退役軍人のための建物だったのでどうかなぁ、みたいなことも言われてました。
そもそも帝冠様式(そういう名前付いてます)って最初にやったの渋沢さんだしな?

「「街道」で読み解く日本史の謎」安藤優一郎

前から何度か読んだことのある著者さんなんですが、庶民史寄りの人だよね多分(世田谷代官とあと小石川療養所の本を読みました)、で、正直街道の本は結構読んでいるんですがそういう本と比べて街道メインではない気はするかな。
個人的には経済や統治などに話を絞ったほうが良かったんじゃないかと思うんですが、秋葉神社と善行寺があんまり面白かったんで、まあ、これはこれでありなのかな。
さすがに初っ端の東海道と近代の話に関しては食傷気味だったけどねー、あれあちこちで何度も見てるからな。
とはいえ、手軽に読める内容なら別にこれはこれでいいのか。
 
秋葉神社というのは江戸時代に江戸の庶民に愛された火の神様で、この参拝のために街道が作られたというのも面白かったんですが、どちらかというとオチの「明治政府が鎮火神社を作った時に、江戸庶民にはそれが秋葉神社としか認識出来なかった」という話で突っ伏して笑う域で面白かったですww
しかもあれだ、秋葉原のあそこか、秋葉神社じゃなかったのねww
あと信濃のになんでも日本最古の仏像があったそうなんですが(そういう触れ込みで発見されたものですね、たまにある)、それが権力闘争の道具となってしまい、何度も何度も何度も持ち去られてそこに新しく善光寺が作られ…という歴史もなかなか。
いや確かに、善光寺って有名なわりにはなんかわかりにくいと思ってたんだけど、みたいな疑問が氷解したり、織田信長が街道沿いに統治を進めていくという構図もなかなか面白かったんですが、ちょっと半端でもあったかなぁ。
それと、戦場分析で街道視点というのもちょっといまいち、一時的な移動にすぎないしな。

「足利義政と東山文化」読みなおす日本史、河合正治

一度、同じ内容のものを読んだことがあるのを読み終わるまで気付かなかった時点でだいぶ不覚だったんですが(私が読んだのは清水新書、だったかな?)、要するにこれ、「応仁の乱」前後の情報がかつてだいぶ混乱していて、最近ようやく整理され始めて来たということもあるんだろうなぁ、という気がしないでもなく。
明らかにここ数十年ほどの応仁の乱題材の本よりまとまっているような…気がするかも。
ただこれ、あくまでも東山文化というタイトルであって、応仁の乱はその背景事情として出てきているというだけなんですよね、そもそも時代としては義政(足利8代将軍)の前の義教(6代)から始まり、その強権的な治世の責任までを負わなくてはならないという部分が解説され、その流れの中で応仁の乱が起こっている(それと明言されているわけではないんですが、さすがに大きな戦になっているので自然とわかる)、という状況だったんですが、多分そもそも、応仁の乱それ自体がその時代から始めないとわからないってことだったのかもなぁ、と今更ながら。
 
かつて読んだ時点ではほとんど時系列が完全なものだと思って読んでいたんですが、今改めて読むと多少前後関係が抜けている部分もあり、まあ、そういう意味ではタイトルにしたわけではなかったので妥当な範囲なのかな。
ただ、東山文化自体の本を読んだ限りでは庭園くらいしか触れていない状況はやっぱりちょっと不満かなぁ、これはこれで。
そして正直なところを言えばこの本が応仁の乱のタイトルで出ていたら、その後数十年くらいの室町時代の歴史本の暴走もなかったんじゃないのかなぁ、ということを考えないでもないですね…、いや、今からでも遅くはないか。

『日本の美術69 初期水墨画』金沢弘・編

前にも確か…日蓮宗だったかな? 日蓮宗本願寺派の本を読んでいた時に祖となる僧侶の(師匠を必ず持っているので系譜でつながっていく)絵を連ねて描いて行く、という習慣が紹介されていたのですが、ここで禅宗で紹介されていたのも多分それと似たようなところだよね、禅宗の場合は僧侶が描いていくのが普通なんですがそういや日蓮宗の場合、誰が描くという観点ではなかったかな?
で、そういう習慣があるので自然に絵心が磨かれていった、というようなことが語られていたのですが、誰が描くかにもよるよな、やっぱり。
禅宗の場合は生活の全てが修行となりうるという方針がやっぱり大きかったんじゃないのかなぁ、という気もしないでもないな。
 
かつて東山文化の本を読んでいた時点でもそもそも水墨画というのが禅宗と共に足利将軍の庇護のもとで、最初はそれこそ中国からの伝来品の模写として発展していった、ということが語られていたので、ほぼ禅宗が出てくることは予想はしていたんですよね。
さすがに作品や初期の絵師という形で禅宗そのものの歴史が語られていく予想はしていなかったのでちょっと笑っていたんですが。
いつものことですが禅宗の本よりわかりやすかったね! うん。
初心者向けの本だと適当に時代をかっ飛ばして「わかりやすく」してくれるので連続性がないのでどうしても記憶中心になるというか、歴史そのものを読むのに慣れている人間にはむしろわかりにくくなっちゃうんですよね。
物を媒介にして歴史語る場合はそこまでわかりにくくもならないし、いっそ禅宗の歴史の本で水墨画を逆輸入するという手も…いやなんでもないです脱線しました。

「寺社と芸能の中世」日本史リブレット080、安田次郎

猿楽に関してはこの本で語られているよりも少し前に独立し(形としてはもう少し前からあったろうけども、専門特化したのはこのちょっと前だよね確か)、この少しあとになると足利将軍などを筆頭に貴族の庇護を得つつ大衆化していったよ、ということのはずなので、個人的にはもう少し前の時代から触れていてくれると良かったのですが、興福寺(と春日社って出てきてたっけ? 言及されてはいたんだけど記憶に薄い)の院同士が争い、それぞれの猿楽の座のどれを贔屓するのかということでしばしば寺そのものの財政を食い荒らした、という形で語られていて、正直前後が抜けているなぁ、という気もしないでもなかったものの、要するにこのあとは採算に関しても独立していき。
一つの貴族の家によって継承されていた院同士が争った、という言及をされているからにはそれぞれの家と猿楽の座との成り立ちが関わりがあったとみるのが妥当っていう認識でいいんじゃないのかなぁ。
好みが別れたということでここまで深く争わないだろうしなぁ、普通。
それがどの程度の関係だったのか、それこそ親類で構成されていたのかということはよくわからないながら、そもそも大寺の院そのものが貴族の家を継げない子弟の入れ物という話だったし、そこからさらに零れる人たちがいることにもそこまで違和感はないよね。
(芸能者が地位を低下させていくのはこの後の時代で、まだこの時期は卑賎だなんだという発想はないようです、リブレット関係でもその辺触れてなかったっけか。)
 
ということを考えるとそういや世阿弥を連れまわしていた足利3代将軍の存在などがあり、特筆されたり若干の悪意はあったらしいものの、そこまで問題視されてもなかったらしいしなぁ、あるいは猿楽もそういう存在ってこともありえるのかしら。

「戦国と宗教」神田千里

ちょっと前に同じ著者さんの浄土真宗本願寺派に関しての本を読んでいたので仏教の本かな? と思い込んで借りてしまったんですが、どちらかというとこの時代の神仏に関しての同時代人たちの態度や、新興宗教としてのキリスト教に関しての扱いなど、タイトルに相応しい全般的な内容だったんです、が。
個人的にはこの時代に進行していたという南米での侵略行為が日本に情報として伝わっていたこと(南米の本読んでるとたまに触れてるよね)、それと出来ればイエスズ会という単位で扱っていたらもっと良かったな、という部分と。
確かにこの時代に関しては宗教融和的な思想が主流で、織田信長豊臣秀吉がちょくちょくその手の禁令などを出していた、というのはわかるし、大名に関してもあまりどの宗教を選ぶなどということがなかったというのは結果としては正しいのであろうものの。
日本で宗教単位での争いがなかったかというと、うーん、という感じ。
それこそこの時代までの法華宗は他所の宗派に戦いを挑んじゃあ潰すみたいなこと繰り返していたみたいにも聞くしなぁ。
あんまりその手の争いが民衆から見て歓迎されていなかった側面はあるのかもしれなくても、実際その手の戦闘的な宗派が結構栄えてる現実もあるし、ちょい言葉足らずなような気も、というか、著者さんはわかってると思うし、キリスト教に対しての扱いに関してそのような融和的行動を取れば禁制はしない、という表現のほうがわかりやすかったんだろうなー、とは思うものの、まあ全体で見ると若干の違和感が。
 
というか、ただの後世評価って言われてましたが、織田信長って同時代人にも普通に宗教破壊者として見られてたのね…、というか神仏の一つとして扱われてる気もww

「NHK さかのぼり日本史6」江戸 “天下泰平”の礎、磯田道史

そもそもどうも今の教科書では重農主義とか重商主義とかそういう概念で教わるようなんですが、私の時代を考えてみるとなんかもっと漠然とした感じで捉えてたよなあ、そんなだから改革の名前と年号を覚えるしかなくなるのだろうかと今ちょっと暗い気持ちになっているのですが、時々触れられている「日本には土地税しかなかった」のほうは直接は取り入れられてないのかな、あれわかりやすいと思うんですけどね。
というよりざっくり、各藩からの年貢しかないわけですよね。
あとのほうの時代になるとなんか店の間口の広さで税金が取られたらしいんですが、それでなんかウナギみたいに長くなった店舗が紹介されてるしね。
 
まあ、各時代の改革はその観点から重商主義にしたものが重農主義に戻ったり、そもそも農民への保護という概念がなかったとか、それでも江戸時代通じて社会福祉という概念はなかったんだとか(藩主の心意気次第の恵みでしかない)。
江戸時代は農民らに保護を与えてるだけ進歩しているとかそんな感じのことがきちんと時代を遡る感じでまとめられていました。
私の力量でそれを順番に短くまとめるのが無理なので時代ごっちゃになってます、そしてそもそもなんでそういう農民を大事にするという発想が出来たのかというと、大規模な反乱である天草の乱があったからだよ、という感じでまとまっていました。
細かいことはよくわかりませんが、その前後で社会システムが結構な変化をしているんならば別にそんなに間違ってもないんじゃないのかな、わからん。
個人的にはこの前の時代から一揆やそれによる領主の追い出しが存在しているので、それだけで説明されるとうーん、となるんですけどね、なんかの転換期ではあるんだろうな。