『爆問学問』#37 山極壽一(霊長類社会生態学)・後編

前回に引き続き“私が愛したゴリラ”の後編、ちゅーか、前編でも言ってらしたわけですが「ゴリラの、人間と違うところを調べることによって人間を考える」というのは、うーん、私みたいのや、太田さんみたいな人にとっては(なんとなく10分の1くらいは存在してるような気が、極少数派とは思ってない)、わりとすんなり受け入れられるんじゃないかと思うんですが。そもそも人間を特別だって思想が薄めなんですよね。
ただ、動物の学者さんがなんで? という田中さんの気持ちがわからんでもない。


野生のゴリラが鼻歌を歌う、ということと子どものゴリラが遊ぶこと。
成体になるに従ってそれがなくなっていってしまうということと、翻って「なぜか」大人になっても遊びの精神を持ち続ける人間。まー、この辺は案外、昔、もっと生活が素朴だった頃はそうでもなかったよ! という意見もありえるのかもしれませんが、それでも祭りってのはずっと存在したわけですし(常に遊ばないのは現代も同じかと)、そもそも笑いの共有というものだけは間違いなく人間にしか存在しないのではないのかと。
笑いそのものがゴリラにはないのではないかな、と言われます。
じゃあだったらなんで人間は笑うのか、笑いってのはなんなのか、というのも結構よく考えたら疑問ですよね。意思疎通自体はゴリラでもなんでも、群れを作る生物になら存在しているわけですし、それなのに笑いはない。
ゴリラには気分がいい状態=鼻歌を皆で、というところまであるのに笑いはない。
だったら笑いって思ったよりも重要なのかもしれないね、とそもそもこう、爆笑問題の二人からして漫才師なわけですが(忘れてませんw)。でも喜怒哀楽がある、というところからちょっと不思議というか、言われないとわからない世界ってあるよなぁ。